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〈渡来文化 その美と造形 24〉 朝鮮式山城

総社市黒尾・奥坂にある鬼城山(鬼ノ城)西門(復元)。現在、門、石垣、土塁、水門などを復元。7世紀後半、国指定史跡

 百済の滅亡直後、干渉戦に軍隊を送った日本であったが、「白村江(はくすきのえ)の戦い」(663年)に敗れた翌年、新羅と唐からの報復攻撃に備えることに大きな関心が寄せられた。

 百済からの亡命者=E憶礼福留、四比福夫の二将軍に大宰府の近くに大野城と基肄城を築かせた。これらを典型例とする山城を「朝鮮式山城」という。

 朝鮮式山城の特徴は、大きな谷を挟んで稜線沿いに城壁を築いていく。谷間は常時水が流れる水量の豊富なところで、石造りの水門が築かれる。山の背後は絶壁で防衛に好都合の地形の、攻撃のためよりは逃げ込みを目的とした城である。平壌の大城山城に代表されるように、古代の大都市周辺に築かれる。

 大野城は標高約410メートルの四天王山一帯の稜線に、周囲8.2キロの城壁を土塁で築き、それが谷にかかるところでは石垣が築かれ、北方に1カ所、西南に1カ所、南部に2カ所の城門を設けている。

 城内の高く平坦な所には、7カ所のそれぞれに、数棟ずつ、合計70棟ほど建物の礎石群が残っている。多くは梁間三間、桁行五間という規格に統一された、礎石を用いた総柱の建物である。これらは高床式の倉庫で、武具や穀物などが貯蔵されていた。また、望楼のような建物もあった。

 朝鮮式山城は瀬戸内沿岸を中心とした西日本に約30カ所が存在するとみられ、現在、熊本県・鞠智城、山口県・長門城、大阪府・高安城、香川県・屋島城その他25カ所が確認されている。

 朝鮮式山城に先立ち、北九州を主とした一帯には「神籠石」と呼ばれる、これ以前の朝鮮系渡来集団の技術によって築かれた古い形式の「山城」がある。

 岡山県総社市にある鬼ノ城は、すり鉢を伏せたような、急斜面の、頂上部が平坦な山の8合目から9合目にかけて、稜線に50×80センチの花崗岩を10段前後、高さ5〜6メートルに積み上げた版築土塁(石を並べ、石と石との間に土を挟んで撞き固める方式)の城壁が築かれており、それは、平均幅約7メートル、延べ2.8キロメートルにわたっており、要所には堅固な高い石垣を備えている。

 城壁の内側は約30ヘクタールあり、4つの谷を取り込み、谷ごとに水門が6カ所と、城門が4カ所ある。城内には,食糧貯蔵庫と考えられる礎石建物跡やのろし場、水汲み場などもある。近年、大々的に整備され、遠くからでもその威容が見られる。この山城の石積み技術は、5世紀以後の朝鮮からの渡来人や百済の築城技術に深く関わっている。堅固な作りのなかにも石積みの美しさが見られる。

 「百聞は一見に如かず」、一度参観されることをおすすめする。「なるほど」と納得されるに違いない。(権仁燮・大阪大学非常勤講師)

[朝鮮新報 2010.8.2]