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〈100年を結ぶ物語・・・人々の闘いの軌跡・・・@〉 元祖 平壌冷麺屋四代

祖父母の魂の帰郷 牡丹峰で祭祀

 日本による「韓国併合」から今月で100年になる。20世紀は朝鮮民族にとって、「植民地支配」と「分断」に抗い、それらを克服して、祖国の独立と統一に身を投じ、自らを人間的に解放しようとする苦闘の時代でもあった。多くの同胞たちが植民地支配下の祖国で生を受け、愛する故郷と肉親から引き裂かれて渡日。解放後も、現在の高校無償化差別反対運動に至るまであらゆる民族差別に抗いながら屈することなく生き抜いてきた。人々はただ風に揺れる木の葉のように運命に翻弄されたのではない。自らの強い意志の力で誇りある生を切り開いてきた。そんな人々の軌跡をたどってみた。

生家は平壌のど真ん中

祖国の配慮で準備された祭祀の供え物(牡丹峰・七星門)。祭祀のあと、みんなで食事をして供養した

 この4月19日、取材のため平壌に滞在していた記者は、ホテルのレストランで偶然、兵庫県神戸市長田区の「元祖 平壌冷麺屋」本店当主の張秀成さん(58)と川西店の張一成さん(41)に再会した。01年、祖母・全永淑さんの半生を聞き書きした折に、従兄弟同士の2人と会ったことがあった。聞けば、今回の祖国訪問の目的は、他界してすでに52年になる祖父で創業者の張模蘭さんの生家・平壌市新陽里(現在は中区域西門洞)を訪ねることと、祖父母の祭祀をそこで挙げることだという。

 「僕ら一族の長年の悲願がやっと、かないそうです」。2人のうれしそうな表情がとても印象的だった。

 秀成さんは、須磨垂水支部板宿分会副分会長を務める。今回の平壌行きは本家の長男として「覚悟」の旅でもあったという。そのために、震災を除いては、創業71年目にしてはじめて店を4日間休業した。「祖父が亡くなって今年で52年。祖母の誕生から100年。やはり、この区切りの年に、父祖の地できちんと祭祀をして、その魂を故郷に返して、追慕したかった」と語る。

 祖父母の祭祀は祖国の人々の配慮で、生家跡を見下ろす風光明媚の地、牡丹峰の七星門の前であげることができた。この地に立って、2人には祖父の名「模蘭」の由来が、直感的にわかるようだったという。「牡丹峰」の麓に生まれ、その地を仰ぎ見て育った祖父。知るほどに、祖父が寄せたであろう祖国愛を感じた2人だった。

3代目の張秀成さん(右)と張一成さん(平壌市・普通門前の祖父の生家跡で)

 今年の平壌の春は例年より20日ほど遅れ、2人が着いた頃、アンズやレンギョウが満開を迎え、牡丹峰は春らんまんだった。「祭祀の料理も祖国の人々の心尽くしで準備できた。平壌焼酎、緑豆チヂミ、蒸し豚、バナナ、もち…」。2人の遺影の前で一成さんがあいさつをした。

 「お二人にお誓いします。100年前、国を奪われ、日本に渡ったお2人が、寝食を惜しみ一生懸命働いたおかげで、子孫の私たちは何の心配もなく暮らしています。やっとこうしてお2人の魂を故郷にお返しすることができました。どうぞ、ゆっくりお休みください。孫の私たちは、お2人の祖国愛を心に刻み、心をひとつにして平壌冷麺を守っていきます」

 父母のサポートを受けながら、事実上3代目当主として川西店を切り盛りする一成さんは、西神戸支部部長(常任)、西代松野分会副分会長でもある。95年の阪神・淡路大震災の際、店が半壊したことが契機となり、朝青の専従だったが店を継ぐことになった。「息子が活動家として同胞に尽くしている姿が誇りだった」父の張元範さん(73)にとっても苦渋の選択には違いなかった。元範さんは繁盛店を切り盛りしながら、地域の分会長として汗を流す日々だった。

 そんな父の背中を見ながら育った息子は、いま、同じ道を歩む。

庶民の胃袋をつかむ

万景台にも展示されている冷麺下ろし機

 「父は冷麺を作り続けてすでに50年を超え、母も嫁いで48年になる。全体重をかけて毎日、そばをこねるのは重労働。いまでも父は早朝から店に入り仕込みをしてくれる。父が店に入ってくるだけで、空気がさっと変わるほど緊張してくる」と一成さん。息子にとって、幼い頃から「世界の誰よりも怖い存在だった」と。

 その厳しい修業に耐えてこそ、祖父母がもたらした朝鮮半島伝来の味を守り続け、次世代にそのバトンを渡すことができると一成さんはきっぱり語る。いまはサッカーに夢中の長男の西神戸朝鮮初級学校4年の張鐵柱くん(10)は昨年の「コッソンイ」在日朝鮮学生作文コンクールで、「曽祖父が創業した冷麺屋を継ぎたい」(全文は別掲)と将来の夢を語っていた。一成さんは「アボジのように息子を厳しく修業させられるかな」とひそかに案じているのだが…。

 息子が成長した頃には、もっと冷麺屋が日本各地に広がっていると確信する一成さん。今回、平壌・玉流館を訪ねた際には、「朝・日間に国交が結ばれたら、是非、玉流館の日本進出のサポートをしたい」と申し入れたという。

 依然として朝・日関係の前途は明るくはない。しかし、日本の庶民の胃袋をがっちりとらえた創業者の心意気は、いま、代替わりしながら脈々と受け継がれている。(朴日粉記者)

[朝鮮新報 2010.8.2]