top_rogo.gif (16396 bytes)

李鍾萬−植民地下の夢と現実− 大同コンツェルンと実業家

 今年は朝鮮が日本の植民地となった年から100年目になる。植民地というと暗い生活空間を思い浮かべがちであるが、当然のごとく民衆には夢があり日々の喜怒哀楽がある。そして、そこにはヒーローもいた。

美しくお金を使う人

李鍾萬

 人生七転び八起きという。文字どおり、いやそれ以上に植民地時代にあらゆる事業に手を染めては失敗をくりかえし自身の夢を実現するために奮闘した人物がいた。

 1937年5月12日のことである。ソウルで「大同鉱業株式会社」創立の記者会見が行われたが、そこに参加した記者たちはあっと驚く話を聞くことになる。それは会社の事業とは別に50万円(現在の約50億円)を投じて「財団法人大同農村社」を設立するというもので、具体的には会社の土地を小作人に収穫の3割で貸し、30年後には無料とする、さらに小作人は自治会を結成し教育・衛生・文化全般の問題を決定するというものであった。

 この夢のような構想を語った人物こそ朝鮮実業界に彗星のごとく登場し、人々から「美しくお金を使う人」と賞賛された実業家・李鍾萬であった。

永平鉱山の関係者たち

 それだけでなく、その年の10月、李鍾萬は神社参拝を拒否して廃校の憂き目にあっていたミッション系の平壌崇実中学校を買収、私立大同工業専門学校を設立した。

 大同工専は1944年に廃校となるまで332人の朝鮮人卒業生を輩出するなど、植民地期の高等教育史に大きな足跡を残している。一時、朝鮮総督府管下の公立平壌工専となったが、解放後に自主再建され金日成総合大学工学部の母体となった。さらに、李鍾萬は大同出版社を設立、大同鉱山組合を含めてそれらは大同コンツェルンと呼ばれた。

 このように大規模な事業を次々と手がけた李鍾萬であるが、そこに至る彼の半生はまさに波乱万丈であった。

失敗を繰り返す

平壌の愛国にある李鍾萬

 1885年、慶尚南道蔚山郡の農漁村で生まれた李鍾萬は、封建社会の身分制度の下で貧しい生活を送る故郷の人たちを救う道を模索する。そして、20歳になってソウルに上京、日本の植民地化が進む社会状況を痛感し、財をなして人々の生活を豊かにする実業家を目指す。

 そして、受け継いだ田畑を売って釜山で魚物商を営むが、ちょうど露日戦争時であり、日本の商人がわかめを大量に買い求めていた。それが医薬品ヨードチンキの原料にするためと知った李鍾萬はわかめを買い占めるが、戦争が終わり大損する。漁師となってその借金を払い終えた彼は自身で漁船を調達して漁業に携わるが、今度はその船が転覆する。

 1908年に故郷に戻った彼は数年後に書堂を統合して大興学校を設立するが、それも封建的慣習に染まった人たちには受け入れられず門を閉めることになる。ちょうど、その頃に第1次世界大戦が勃発して、武器製造に必要な重石(タングステン)の価格が暴騰する。そこで彼は江原道でその採掘を行い、ある程度の利益を得た。そして、大規模な設備投資を行うが戦争が終結し価格が暴落、またも事業は失敗する。次に金剛山のふもとで木材商を営むが、明日には出荷という段階で台風に遭い、すべて流される。

再び歴史の表舞台に

雑誌「朝光」に掲載された李鍾萬の記事

 一事が万事、彼の事業はことごとく失敗。そして1932年、一説には29回目に手がけた事業が永平金鉱採掘権の買収であった。すでに廃鉱となっていたが、その付近に新たな鉱脈があると信じてのことであった。果たせるかな、いくつかの鉱脈が見つかり事業は軌道に乗った。

 そして、1936年に朝鮮最大の金鉱といわれた長津鉱山開発権を確保する。そこで永平金鉱を155万円で売却し、そのうちの50万円を大同農村社設立に投じ、蔚山・平康・永興などで157万坪の土地と153戸の小作人によってその事業が始まる。時に李鍾萬53歳のことである。

 東亜日報は、「このような篤志家の土地が157万坪にすぎないことが残念である」と報じ、雑誌「朝光」も「農村理想郷の建設者・李鍾萬氏の人物」という記事を掲載するなど期待も大きかった。

 しかし、ばく大な経費に対して利益を挙げるのは大同鉱業だけで、負債は増え続け1943年の朝鮮総督府の金鉱整理事業によって破産状態にあった大同鉱業は解体される。さらに、大同出版社も大同工専経費捻出のために売却され、その大同工専も平安道庁に引き取られる破目になる。植民地支配下にあって個人の力で実現するには、その夢はあまりにも大きすぎた。

 解放直後、ソウルで民族産業の復興を目指した李鍾萬であったが、米国の軍政下では日帝時代の二の舞となると判断、1949年6月に平壌で開催された「祖国統一民主主義戦線結成大会」に参加する。その時、金日成主席は「李鍾萬先生、いらしたら壇上におあがりください」と呼びかけた。植民地時代のヒーローが再び歴史の表舞台に姿を見せた瞬間であった。すでに66歳であったが、ここから彼の夢が新たな展開を見せる。

 そのまま平壌に残った李鍾萬は内閣鉱業局顧問となり鉱山開発に携わるが、とくにその経験が活かされたのが朝鮮戦争後の銅山開発事業である。

 戦後復旧建設にとくに重要となったのは鉄鋼とともに、電気産業に必要な銅であった。李鍾萬は植民地時代に慈江道で探査を行っており、その開発を任されたのだ。同時に、祖国統一民主主義戦線常務委員、最高人民会議代議員を歴任、その後、日々躍進する経済発展を見守りながら1977年に人生の幕を閉じる。波乱万丈の前半生とは対照的な穏やかな余生であった。享年93、彼の功績を讃えて、その遺骨は平壌の愛国烈士稜に安置されている。(任正・朝鮮大学校理工学部教授)

[朝鮮新報 2010.7.30]