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発盛精錬所朝鮮人犠牲者慰霊式に参加して 墓と呼ぶには、あまりにも粗末な石

「許されない罪を、人はどのようにして償ったらよいのだろう」

海の向こうに見える男鹿半島。ここに朝鮮半島から連行されてきた労働者たちが人知れず眠る

 墓と呼ぶにはあまりにも粗末な石の集まりだった。一つの石の大きさは一抱えほどであろうか、無数の石の集積が、小高い河岸段丘の傾斜に、散々に広がっていた。丘は、遠く日本海をのぞむ場所にあって、梅雨にうたれて視界は悪かったが、水平線上には男鹿半島がぼんやり見えた。かつて、海の向こうに見える男鹿半島を朝鮮半島に見たてて、過酷な労働のあい間にアリランを唄う人がいたという。

 ここで亡くなった犠牲者の誰もが「いつか、必ず故郷に帰れる」と、信じていたと思う。どのような言葉を尽くしても、どんなに悔もうとも、失われた人々を蘇らせることはできない。許されない罪を、人はどのようして償ったらよいのだろう。



発盛精錬所朝鮮人犠牲者慰霊式には今年も日朝の市民が多数参列した

 秋田県朝鮮人強制連行真相調査団の報告によれば、秋田県八峰町の発盛精錬所に強制連行された犠牲者の墓は、現在約70基確認されているが、刈り払いができない敷地の奥にも、さらに犠牲者の墓があるのではないか、と言われている。どの墓石にも、名前は書かれていない。

 7月10日は、朝からどしゃぶりのような雨だったが、慰霊祭の始まるころには雨脚もだいぶ弱くなった。山を覆っていた霧があがり、丘に広がった墓石に1本1本、白菊を供えると、曇っていた風景も明るくなったように思えた。慰霊祭では、犠牲者に向けて「在日」側と日本側からそれぞれ一人ずつ追悼文を読み上げ、みんなでアリランを歌い、また韓国から許可を得て持ってきた故郷の土を墓石の周りに撒いた。

 強制連行は、ここで亡くなった人々の未来を永劫に、断ち切ってしまった。生きて故郷に戻れたなら、恋愛も、結婚もして未来を担う子どもたちもいたはずなのに。

 私のような若い「日本人」が、「昭和の戦争責任」を思考しようとするときの困難やとまどいは、こうして現場に立ってみたときに剥き出しになる。知識だけで知っていた強制連行だが、この場に対峙して、足のすくむような思いに囚われ、言葉も出ない。今、大学に入学する世代はすでに平成生まれという時代になった。東西ドイツ、ソヴィエトの崩壊はおろか、9.11の記憶さえも産まれて間もなかったというジェネレーションである。だが、過去を過去として思考しているかぎり、未来は開けない。併合100年を迎える今になっても、謝罪も補償問題もなおざりにし、戦争責任を曖昧に放置しておけば、今生きる私たちのみならずアジアの未来そのものに歪みをもたらすということだけは、確実なのだ。

 戦争はしない、戦争に加担もしない、そしてまた来年も、ここに来ようと思う。(AY・一橋大学)

■発盛精錬所とは

 秋田県八峰町八森の日本海から海抜20〜80メートルの海岸段丘に発盛鉱山が見つかったのは、1888年。はじめから銀の産出が多く、のちに大規模な露天掘りをして飛躍的に生産が伸びた。1908年には、「坑夫一三六五人に及び、産銀一カ月最大五万dに達し、単一鉱山として銀の産額は、日本に冠絶した」(「秋田県鉱山誌」)という。だが、富鉱部を掘り尽くしたあとは、たびたび休山を繰り返したが、五能線が開通してから鉱石の運搬が便利になり、住友合資の協力を得て、精錬設備を充実させ、他鉱山の鉱石を買収して精錬する発盛精錬所として再出発した。この発盛精錬所へ、太平洋戦争中に朝鮮人が強制連行されて働いたことは早くから知られていた。しかし、何人が連行され、どんな作業をしていたのか、食生活はどうだったか―などはまったくわからなかった。地元の人が書いた郷土史も、発盛鉱山(精錬所)は書いているが、朝鮮人強制連行の事にはまったく触れていない。

[朝鮮新報 2010.7.26]