「強制連行調査団」
1972月12月16日にゼミ参加学生と共に常磐炭田地帯のいわき市を訪れ、朝鮮人強制連行を調査した。しかし翌年初めに結核が発見されて治療を受けなくてはならなくなったので、調査は中絶した。
その後、在日朝鮮人と日本人合同で編成された「九州地方朝鮮人強制連行調査団」に参加して、74年4月10日から11日間、筑豊炭田の強制連行調査を行った。
その調査結果は雑誌に発表したが、これは最後に「筑豊炭田の朝鮮人強制連行」と題して朴慶植・山田昭次監修、梁泰昊編「朝鮮人強制連行論文集成」(明石書店、93年)に収録された。その後も第1次世界大戦の時期に増大する筑豊炭田の朝鮮人労働者の歴史を朝鮮人強制労働の前提として研究し、「朝鮮人強制連行の歴史的前提−筑豊炭田を主な事例として−」(「在日朝鮮人史研究」第17号、87年9月)を発表した。
75年7月25日から8月15日にかけて「東北地方朝鮮人強制連行調査団」に参加し、福島県と山形県の調査に当たった。
その後も個人で行った調査結果も加えて「福島県西部地方朝鮮人強制連行の記録−高玉鉱山、与内畑鉱山、大宮鉱山の朝鮮人強制連行とその後−」(「在日朝鮮人史研究」第9号、81年12月)や、「山形県最上郡大蔵村永松鉱業所朝鮮人強制連行聞書」(朴慶植・山田昭次監修、梁泰昊編、前掲書)を発表した。
91年から金景錫の日本鋼管に対する戦後補償訴訟に関わり、2000年以降は、東京麻糸紡績沼津工場、富山の不二越、三菱重工名古屋航空機製作所などの工場に動員された元朝鮮女子勤労挺身隊員の戦後訴訟に関わって意見書提出や法廷陳述を行った。このために工場での朝鮮人強制連行研究を新たに開始した。
その結果、農村地域からの炭鉱・鉱山・土建業の動員には露骨な強制や拉致方式が行われたが、工場への動員に際しては主として都市在住の国民学校卒業、もしくは国民学校在学の学歴をもつ都市在住者に対する甘言による就業詐欺方式が取られたことを解明し、「朝鮮女子勤労挺身隊の動員と鉄鋼業への朝鮮人男子の戦時動員との比較検討−日本『内地』の工業分野への朝鮮人戦時動員方式の特徴について−」(「韓日民族問題研究』第9号、05年12月)を発表した。
05年には「朝鮮人労働動員」(岩波書店)を古庄正、樋口雄一と共同で著した。本書は、朝鮮人強制連行はなかったと主張する藤岡信勝ら自由主義史観信奉者を批判すると同時に、朝鮮人強制連行研究史も検討した。
私たちの研究の進展の結果、強制連行された韓国人の戦後補償訴訟に対する判決は、その動員方式が強制動員であることは認めるようになった。
しかし裁判所は日韓請求権協定第2条により被害者に請求権はないとして敗訴判決を下すのが通例となった。このために韓国人の戦後補償訴訟は日本鋼管に対する訴訟と、不二越に対する第一次訴訟だけは和解となったのみで、他はすべて敗訴となった。
もはや司法による解決の可能性はない。新たな立法による解決の外に方法がない。07年12月に韓国で「太平洋戦争前後国外強制動員犠牲者支援法」が公布されたが、しかし日本政府として謝罪の意志を表明して補償措置を取らねば、被害者たちの無念な心は消えることはないであろう。
ハンセン病患者との出会い 82年9月3日のことである。
私は関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨の発掘作業で東京都墨田区八広の荒川河川敷に立っていた。そこへ東京都東村山市の多磨全生園の朝鮮人・韓国人の会である互助会長金奉玉氏一行が追悼に来られた。
その時、金会長は「全生園にも強制連行された人がいますよ」と言われたので、この年の11月14日に互助会を初めて訪問し、その後強制連行されたあげくにハンセン病にかかった4人の朝鮮人・韓国人から聞き書きをした。
しかし、そうしているうちに、民族差別による貧困のためにハンセン病の発病率が日本人の10倍も高い在日朝鮮人の歴史に気づいて、これと正面から向き合うことにした。
そこで83年から86年にかけて毎年夏休み中に2、3日間、私のゼミに参加している学生や大学院生、市民十数人が参加して多磨全生園に合宿して同園の朝鮮人・韓国人と交流しながら聞き書き作業を行い、夏休み後さらに1年間にわたって補充聞き書きを行った。
合宿を4回行って28人からの聞き書きを収録した草稿本を作成した。この草稿本をさらに検討して89年に緑蔭書房から刊行したのが、立教大学史学科山田ゼミナール編「生きぬいた証に−ハンセン病療養所多磨全生園朝鮮人・韓国人の記録−」である。本書は93年に韓国語版が刊行された。
本書はハンセン病を病んだ朝鮮人・韓国人の苦難のみを描いたのではない。彼らが互助会を組織し、逞しさや他者へのやさしさを身につけて生きぬいた姿も描いた。
本書のほかに、民族差別、ハンセン病差別の上に性的差別を受ける在日朝鮮人女性の問題を指摘した山田ゼミの一員の徐福姫記録、朴守連述「三重の差別を背負わされて生きる」(「ひと」87年6月号)や、李乙順「私の歩んだ道−在日・女性・ハンセン病」(「私の歩んだ道」を刊行する会、01年)に私が寄稿した「在日朝鮮人・女性・ハンセン病」が発表された。こうして私たちはマイノリティの中のマイノリティに眼を向けた。
回顧すれば、皇国少年として教育された自己から脱皮して、日本問題としての朝鮮問題に関わって以来、46年の歳月を経た。
この長い歳月の間、朝鮮問題に関わり続けられたのは、朝鮮大学校図書館長だった金鐘鳴先生、朴慶植先生、「統一評論」編集長だった金広志先生をはじめとする数多くの朝鮮人・韓国人から受けた人間的な感銘の結果であった。
70年代では立教大学の多くの学生は「あいつの所に行ったら、就職できない」と言って私を避けた。私が日本近・現代史を朝鮮問題と関わらせて講義やゼミを行ったからである。
しかしそういう思想状況の中でも私の講義やゼミに集まった学生たちが、今は市民運動、出版活動、教育などのさまざまな分野の第一線で活躍している。明日あの世に旅立っても、彼らによって継承された私の営みは絶えることはない。
以上の2つの意味で私の生涯は幸せだったと思う。
現在行っている主要な研究は、戦後、とくに63年以降は毎年8月15日に政府が開催してきた全国戦没者追悼式が、実際には侵略戦争に動員されて無意味な死を強いられた日本人戦没者を国のために生命を捧げた愛国者として褒めたたえ、米国と提携した再軍備を支えるに必要な「愛国心」の再興を図ってきたことを解明し、自由主義史観と対決することである。(おわり)
やまだ・しょうじ 1930年生まれ。敗戦後、アジア・太平洋戦争への反省から日本近代史に関心を持ち、日韓条約反対運動以後、朝鮮を視野に入れて日本近代史像の再構築を志す。62年〜95年まで立教大学教員。現在は同大名誉教授。「学校に対する君が代斉唱・日の丸掲揚の強制を憂慮する会」共同代表。本シリーズで紹介した著書のほかに、「震災・戒厳令・虐殺」(三一書房、08年、共著)など多数。 [朝鮮新報
2010.7.23] |