〈朝大 朝鮮歴史博物館-11-〉 朝鮮の三国時代8 東明王陵と定陵寺 |
高句麗の始祖王、高朱蒙の墓 高句麗は朝鮮三国のなかで最も高い文化水準を誇った国である。高句麗文化が三国時代のほかの国々に与えた影響は多大なものがあったといえる。またその文化は海を越えた古代の日本にも伝わっている。たとえば高句麗の仏教文化は奈良の飛鳥寺からもうかがえるのである。今回は東明王陵と定陵寺を基本テーマにしながら、高句麗の寺院についてもふれてみることにしよう。
平壌に再建された東明王陵
東明王陵とは平壌市力浦区域龍山里にある高句麗の始祖王、高朱蒙の墓である。没後、東明王とおくり名された高朱蒙の墓が平壌にあるというと、不思議に思う読者もいると思う。普通、王墓は彼らが生きていた時代の都に築かれるからである。 何が問題なのかというと、東明王は紀元前3世紀の人物で、高句麗が平壌に都をおいた5世紀との間には、数百年ものひらきがあるからである。では平壌にある東明王陵は高朱蒙とは無関係なのであろうか。もう少し掘り下げて考えてみよう。 1974年に調査された東明王陵からは壁一面に描かれた蓮華文が発見された。これは高句麗壁画古墳のなかでも特異な壁画といえる。また、これとよく似た壁画古墳が、高句麗初期の都である卒本(現中国遼寧省桓仁)からも発見されている。米倉溝将軍墓である。ここからも壁一面に描かれた蓮華文が確認されている。 実は、東明王が活躍した紀元前の頃には壁画古墳は存在せず、積石塚と呼ばれる墳墓形式が用いられていたのである。このことから卒本にあった東明王の陵墓を、平壌遷都にあわせて今の位置に移築し、また、もとの場所にも同じ様式の壁画古墳を築いたのだが、それが米倉溝将軍墓であると考えられるのである。 現在の東明王陵は墳丘とその周辺施設とが増築整備されたものである。当館ではそれ以前の東明王陵と定陵寺の模型が展示されている。 定陵寺とその伽藍配置
高句麗が平壌を都にするのは長寿王が国を治めていた427年のことである。広開土王の子であるこの王は、その名の示すとおり98歳まで生きた長寿の王である。 ところで東明王陵の発掘時に、その南側の平地から大規模な建築址が調査されている。これが高句麗式に建てられた定陵寺の址である。現在は元の位置の東側に立派に復元されている。定陵寺の名は歴史書に見えないが、「定陵」「陵寺」「高麗」と刻まれた土器片が出土したことからこの名がある。 定陵寺の伽藍配置は、中央の塔を中心に東と西、そして北側に金堂を配置する「1塔3金堂式」とよばれるもので、これは高句麗固有の伽藍配置である。また、日本最古の本格寺院とされる法興寺(飛鳥寺)も「1塔3金堂式」で建築されており、高句麗文化の影響が指摘されている。この寺は「聖徳太子」が師事した高句麗僧の慧慈や百済僧の恵聡が住んだことでも知られている。 当館には定陵寺出土の瓦当や刻文土器片が展示されている。復元された定陵寺の写真と共に見てみてはいかがであろうか。(河創国・朝鮮歴史博物館 副館長) 朝鮮歴史博物館へは「朝鮮大学校国際交流委員会」へ電話連絡のうえお越しください。 朝鮮大学校 東京都小平市小川町1−700、TEL 042・341・1331(代表)。 アクセス ・JR中央線「国分寺」駅北口より西武バス「小川上宿美大前行き」または「小平営業所行き」「朝鮮大学校」下車徒歩1分 ・JR中央線「立川」駅北口より立川バス「若葉町団地行き」、終点「若葉町団地」下車徒歩10分 [朝鮮新報 2010.7.23] |