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〈シリーズ・「韓国併合」100年 近代史を民衆の視点で解く 山田昭次さん−C〉 虐殺の国家・民衆責任を追及して

長野でも山狩り

 1972年4月に歴史教育者協議会大学部会の学生たちと共に長野県南佐久郡佐久町に旧大日向村の満州農業移民の調査に出かけた時のことである。

 同町本郷の坪井高則は、「関東大震災の時、朝鮮人が山に入って放火するという情報が小諸から来たので、大日向村の村民の殆どが日本刀などを持って山狩りに出た。佐久の村々ではあちこちで山狩りをしたと思う」と話してくださった。

山田昭次著、創史社、TEL 03・3377・2083、2200円+税)

 私は東京からずっと離れたこの山村でもこうしたことがあったのかと驚いた。そこで関東大震災時の朝鮮人虐殺事件の全国の諸地方での波紋を各地の新聞によって調査し、79年に「在日朝鮮人史研究」第5号に「関東大震災期朝鮮人暴動流言をめぐる地方新聞と民衆−中間報告として−」を発表し、次いで82年に「関東大震災期朝鮮人暴動流言をめぐる地方新聞と民衆」を朝鮮問題懇話会から刊行した。04年には、日本全国各地の代表的新聞の朝鮮人虐殺事件関係記事を編集した「関東大震災朝鮮人虐殺問題史料 X 朝鮮人虐殺関連新聞報道史料」全5冊を緑蔭書房から刊行した。これらが第1の契機の産物だった。

 第2の契機は、82年7月18日に東京で結成された「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘する会準備会」の仮代表に無理矢理にさせられたことである。

 この運動は、東京都足立区の小学校教員である絹田幸恵の提起により関東大震災時に東京都墨田区八広付近の荒川放水路の四ツ木橋(現在は木根川橋)下の河川敷で軍隊や民衆によって殺された朝鮮人の遺体を掘り返して追悼しようというものだった。しかしこの運動の代表になる人物がいなかったので、私は徐兄弟救援で手一杯だったが、正式代表が決まるまでの間の仮代表を引き受けさせられたのである。

 この年の9月2〜3日、および7日にこの河川敷で試掘を行ったが、朝鮮人の遺骨を発見できなかった。それも当然で、実は23年11月14日に警察がここに埋められた遺体を掘り返して持ち去っていたのである。

 82年12月3日に正式代表が決まったので、私は仮代表を辞任した。しかしその後も私は埼玉県、群馬県、千葉県などに建立された被虐殺朝鮮人の追悼碑や墓を訪ねて歩いた。

 この追悼碑視察から見た問題点を1988年に刊行されたJ昭和編「写真報告 関東大震災 朝鮮人虐殺」に寄稿した拙稿「関東大震災時の朝鮮人虐殺−私達は官民一体の体制をどれだけ克服したか−」に次のように記した。

 「神保原」(現埼玉県児玉郡上里町神保原町)に1952年建立の『関東震災時朝鮮人犠牲者慰霊碑』がある。碑文の冒頭には「大正十二年関東震災に際し朝鮮人が暴動を起こしたとの流言により東京から送られて来た数十名の人びとがこの地において悲惨な最期を遂げた」と書かれている。本庄市長峰墓地に1955年に建立された「関東震災朝鮮人慰霊碑」の碑文の冒頭もこれに似て「一九二三年関東震災に際し朝鮮人が暴動を起こそうとしたとの流言により東京から送られて来た八十六名の朝鮮人がこの地において悲惨な最後を遂げた」と記されている。

 共通しているのは、直接の加害主体である日本民衆をぼかしていることである。文章を書いたのは、前者は柳田謙十郎氏、後者は安井郁氏である。いずれも戦後民主主義の旗手だった人である。私は両氏を非難しようとは思わない。おそらく地元の感情が両氏の筆をここに止めたのであろう。日本の民衆が自己の罪を率直に告白することを通じてその罪に追い込んだ大日本帝国のより大きな罪を告発することが必要だったのである。

 しかし、この碑文に見られるように、民衆が自己の罪を隠すことで国家のより大きな罪を覆い隠し、官民一体の体制を克服しきれなかった。

追悼せず放置

 90年代以後、私の研究の焦点は、自己を国家や自民族の枠に閉じ込めて、国家の他民族に対する加害の加担者になった日本民衆の思想、および朝鮮人が暴動を起こしたという誤認情報を流して朝鮮人虐殺事件を引き起こした第1の国家責任、朝鮮人暴動がなかったことが判明すると、架空の朝鮮人暴動をでっちあげ、かつ朝鮮人遺体を隠して虐殺責任を隠ぺいした事後責任である第2の国家責任を含む国家責任の総体の解明に絞られた。この点に関する個別論文を数編発表した後、これらの研究の中間のまとめとして、関東大震災朝鮮人虐殺80周年を迎えた03年9月に創史社から「関東大震災時の朝鮮人虐殺−その国家責任と民衆責任」を刊行した。

 私は本書の「あとがき」で日本人がなすべき実践的課題を次のように提起した。

 「自己が罪を犯したことを告白することは容易なことではない。罪意識が深ければ深いほど、容易に口に出せない。しかし民衆が自己の罪を告白しなければ、民衆を朝鮮人虐殺に赴かせた国家のより重い罪や責任は明白にならない。

 つまり、民衆が国家によって朝鮮人虐殺にはまり込められた自己の思想的欠陥を反省すると同時に、国家責任を明白にし、告発することが民衆に課せられた重要な責任である。民衆責任はこの二つの面を持っている。この二つのいずれも切り捨ててはならない。(中略)さまざまな問題点を随伴したにせよ、墓碑や追悼碑を建立して虐殺された朝鮮人を追悼して来たのは民衆のみであり、国家はそのような意志をまったく持たなかった。そこに民衆にしか将来への希望がないことが語られている。私は、その日本民衆が有終の美をなすために、第一、第二の国家責任を明白にしてこれを問うことを提起したかったのである」

 本書刊行後も認識をより深めた個別論文は発表してきたが、現在もこの観点に変りはない。

[朝鮮新報 2010.7.20]