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〈シリーズ・「韓国併合」100年 近代史を民衆の視点で解く 山田昭次さん−B〉 無名の人々に支えられて

南で出会った人々

 私が救援のためにたびたび韓国に渡って出会った韓国人は、高名な知識人から無名の民衆にわたった。独裁の下でも、それに屈せず人間らしい生活を送っていた、これらの人々のことは、忘れられない。ここでは時間の制約上、私の眼に映った無名の民衆の姿に限って語っておく。

 1972年11月7日に初めてソウルを訪れた時のことである。この時朴大統領は大統領直接選挙制を間接選挙制に変える憲法改悪案を成立させるために非常戒厳令を布告し、ソウル市内に戦車が出動していた。しかしソウルの市民は非常戒厳令などどこ吹く風とでも言いたげな表情で、平然と「平和市場」などに買いものに集まっていた。それを見て私は韓国民衆のたくましさに内心驚いた。

「金子文子−自己・天皇制・朝鮮人」(影書房刊、3990円+税)

 78年3月31日に私は刑期満了に近い徐俊植が収容されている全州矯導所を訪れた。彼との面会、および彼が刑期満了後に「社会安全法」による「保安監護処分」を受けて依然として獄中に収容され続けるのか、どうかの観測が目的だった。

 矯導所の門をくぐって、まず差し入れ品販売所に行った。そこの近くにある掲示板の文章を朝鮮語辞典を見ながら読んでいると、部屋の隅に座っていた若い女性が私が日本人であることに気づいて、日本語のできる差し入れ品販売所の白髪の老人を連れてきてくれた。この老人は日本人救援者に親切にしてくれる評判のある人であった。彼はてきぱきと差し入れ品を係官に受け入れさせる手続きをしてくれたので、販売所で買ったパンやリンゴ、持参した衣類や書籍を差し入れることができた。

 私は「徐俊植さんに面会したいのだが」と言うと、老人は「それは難しいですよ。家族以外の人には面会させませんから。でも、教務課長さんに取り次いであげましょう」と言って取り次いでくれた。おかげで教務課長に面会できた。教務課長は「徐俊植はおそらく保安処分を受けるだろう」と答えた。徐俊植との面会は拒否された。

 当時、韓国政権側から「北傀」、すなわち北の傀儡政権の手先というレッテルを貼られていた私に親切にして個人的な利益になることは1つもないのに、親切に対応してくれたこの老人のことは今も、忘れられない。彼は口にはしないが、独裁の被害者やその救援者に対する共感をひそかに持っていたに違いない。

 また80年3月26日から4月3日にかけて韓国を訪れた時のことである。この時は東京教育大学元教官・同窓生112人が署名した徐兄弟早期釈放嘆願書を朴正熙の後任であった崔圭夏大統領の官邸に提出した。この時は前年10月26日に朴大統領が中央情報部長金載圭に射殺されたので、非常戒厳令が宣布されていた最中だった。そうした状況の下で大統領官邸への嘆願書提出は通常の方法では難しいと判断したので、崔圭夏につながる人脈を探したが、見つからなかった。そこでソウルの日本大使館へ行って大使を突き上げた結果、大使館の自動車で大統領官邸に行けることになった。

 自動車には日本大使館勤務の韓国人職員が同乗してくれた。自動車が大統領官邸の入口に到着すると、予想したごとく、銃を持った兵士たち数人がばらばらとやって来て、自動車を取り巻いた。韓国人職員は、にやっと笑って「東京ではこうしたことはないでしょ?」と言った。日本大使館の自動車で来たお蔭で無事に嘆願書を提出してから、彼は私が泊まるYMCAホテルまで送って下さった。その際、彼は「朴大統領が亡くなられてから、日本から救援関係者はしばらく来られませんでしたが」と言って笑顔を見せた。

 私は、一見平凡な生活を送っているようで、こうした厳しい状況の中で独裁に心を譲り渡していない人々に会えたことに深い感動を覚えた。こうした民衆に支えられて、韓国の独裁の打倒、民主化は達成されたのであろう。

 獄中の息子たちを支えた母呉己順や高名な民主的知識人との交流については「在日韓国人良心囚徐兄弟の救援中に出会った人々」(拙著「植民地支配・戦争・戦後の責任−朝鮮・中国への視点の模索」創史社、05年)で述べたので、ここでは省略する。

金子文子との「出会い」

 私は徐兄弟救援の最中の70年代の末期に金子文子の自叙伝「何が私をこうさせたか」を読んだことが契機になって彼女の思想や生き方に魅力を感じて彼女の生涯の資料を集め、また彼女が暮らした日本や韓国の地を訪ねて、調べた。なぜかと言えば、彼女は自己が受けたさまざまな差別を媒介にして、植民地支配下の朝鮮人の苦しみやたたかいをわがことのように感じて朝鮮人と共闘した女性だったので、それが私の徐兄弟救援への思想的励ましとなったからである。

 彼女は03年に横浜に生まれたが、その生い立ちの時期に父が入籍させなかったので幼少期から無籍者として差別を受けた。12年から19年まで父方の叔母が嫁いだ忠清北道の芙蓉面に住む岩下家の養女として過ごしたが、ここでも一緒に住む父方の祖母によって虐待された。このように日本人から受けた被差別体験を持つ彼女は、日本人植民者から受けている差別・抑圧を受けている朝鮮人、あるいは朝鮮人が解放を求めて立ち上がった三・一運動に深い共感を抱いた。

 19年に日本に帰ってから一時浜松に住む父の家で暮らしたが、文子を自己の利害で勝手に嫁がせようとし、また女は学ぶ必要がないと言って文子の知的欲求を抑圧する典型的な家父長である父とケンカ別れして、20年、17歳の時に東京に出た。

 彼女は東京で苦学している際に、日本の朝鮮支配にひたむきに抵抗する朴烈に出会い、彼に共感して結婚した。

 彼女は関東大震災の際に朴烈と共に警察に収容され、共に皇太子の暗殺を図ったとして大逆罪と爆発物取締罰則違反容疑で起訴され、26年3月25日に大審院で死刑判決を受けた。2人はまもなく無期懲役に減刑されたが、彼女は7月25日に獄中で死去した。自殺と言われるが、死因は明らかでない。享年23歳。

 予審に際して彼女は予審判事の転向強要にも屈せず、「地上の平等なる人間生活を蹂躙して居る権力と言う悪魔の代表者は天皇であり、皇太子であります」と宣言した。彼女は天皇や皇太子は父から受けた性的差別や無籍者差別、あるいは朴烈が受けた民族抑圧の元凶の代表者と考えたのである。

 私は1996年に影書房から発行した「金子文子−自己・天皇制・朝鮮人−」の「あとがき」に次のように書いた。

 「私は日本人として懸命に生きている人びとに対して本書が励ましや慰めになるならば、これに過ぎる幸いはないと考える。つまり、私が金子文子から与えられたものを他の日本人たちに返そうとしたのである」

 拙著「金子文子」は、03年に韓国語版が刊行された。

[朝鮮新報 2010.7.14]