top_rogo.gif (16396 bytes)

本紙初公開 朝鮮戦争写真を発掘した報道写真家・山本皓一氏に聞く 「戦火の記録」 生々しく

朝鮮戦争60年 米海軍准尉が撮影した「戦火の記録」

 朝鮮戦争勃発から今年で60年を迎える。米国によって強要された朝鮮戦争は、朝鮮人民に計り知れない不幸と苦痛、ばく大な人的および物的被害をもたらした。

 戦争の砲声がやみ、停戦が実現されてから長い歳月が流れたが、米国は今も歴史の真実をわい曲して戦争の挑発者、侵略者としての正体を覆い隠し、その責任を朝鮮に押し付けようと悪らつに策動している。

 このほどフォトジャーナリストの山本皓一氏が本紙に提供したのは、歴史的にも貴重な朝鮮戦争当時の写真の一部。38度線周辺や停戦会談の舞台となった板門店などを撮影したカラー写真である。

 記録的にも貴重なうえ、数奇な運命を経て蘇ったこれらの写真は朝鮮戦争60年という節目の年に当たり、同氏の協力を得て、今秋、長野で日朝友好運動を担う人々の手によって公開される予定。また関係者たちは、「韓国併合」から激動の100年を振り返り、今月19日、学習会を開く予定だ。

 山本氏の手にあるのは、朝鮮戦争に従軍した国連軍速記主任のジョージ・フラー米海軍准尉が撮影したカラーフィルム537枚。ヘリコプターに乗って板門店周辺などを空撮したものや老人や子ども、川で洗濯をする農村の女性たちの姿を至近距離から撮影したものなどが含まれている。

 朝鮮戦争当時の写真は他にも数多く見られるが、ほとんどがモノクロ写真であり、カラー写真はほとんど存在しないという。撮影に使用されたコダクローム(当時のASA感度10)のフィルム保存状態が非常によく、戦時中の生々しい様子が鮮明に写っている。

 ジョージ氏は当時、国連軍の情報部に所属しており軍機密文書なども取り扱っていたため、徹底した秘密主義だった。戦時中、何度か日本を訪れていた同氏が出会ったのが、キミ・トッシングさん(旧姓は永井きみ)だった。

 51年、当時21歳だったキミさんは横浜の米軍施設で事務員として働いていた。休暇中で日本にやってきたジョージ氏と出会うが、3年後、2人は音信不通になった。同氏は75年に58歳で病死したが、その貴重なフィルムはう余曲折を経て、キミさんの手に渡った。

 その後、山本氏が撮影した「朝鮮半島38度線」のグラビアを目にしたキミさんは、94年6月、フィルムの一部を同氏に送った。その写真を見た同氏は驚愕し、すぐさま写真の詳細追跡を開始した。

 山本氏は、朝鮮、南朝鮮、米国、オーストラリアへと渡ってジョージ氏に関わる人物に話を聞き、写真のなかの真実を調べ上げていった。そして同年10月、その追跡記録である「知られざる板門店」(山本皓一著、講談社)を刊行した。

 また、翌95年12月に60枚をパネル写真におこし、東京展・大阪展とともにキミさんの出身地である長野県の松本市内で写真展「写真追跡・知られざる板門店」が開かれ、写真が初めて公開された。

 世界中を駆け巡り、数多くの報道写真を撮ってきた山本氏。朝鮮に興味を持つようになったきっかけは1980年、はじめて北から板門店に足を踏み入れたときのことだった。

 朝鮮半島を引き裂く軍事境界線を目の当たりにして、「数歩前に歩きその1本の線を越えれば南の地だ」と実感した。そこに立ち銃を構える米兵は、今まで同氏が知っていた陽気なアメリカ人とはまったく違っていた。無表情で、呼びかけてみても無言だった。「『向こう側』から呼びかけたらどうなるのだろう」。

 立つ位置によってものの見方は大きく変わる。ものごとを客観的に判断することがいかに難しく大事なことか気づかされた同氏にとってそれ以降、朝鮮半島が取材テーマの一つとなっていった。

 同氏は「60年前の1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発し、53年7月27日に停戦協定が結ばれたが、それはあくまで停戦であり、戦争が終結したわけではない。いまだに朝鮮半島は分断されたままであり、朝鮮民族の悲劇は続いている」と嘆く。

 「停戦協定が結ばれて以来、米・中・ソ(ロシア)はじめ周辺国は、無責任にも60年間、知らん振りをしたまま、平和のために何一つ役割を果たしてこなかった。板門店はまさしく、朝鮮民族の悲劇のシンボルである。軍事境界線では、いまだに、北と米、南のぼう大な軍事力が対峙している、それ自体が戦争の火種であり、いつでも戦火が広がる危険性に満ちている。停戦協定を確固とした平和協定に変え、朝鮮半島に恒久平和を築くためにも、関係国による対話に真摯な立場で臨むべきである」と指摘した。(尹梨奈記者)

[朝鮮新報 2010.7.14]