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〈シリーズ・「韓国併合」100年 近代史を民衆の視点で解く 山田昭次さん−A〉 徐兄弟の闘いへの感動と共感

19年間も投獄され1990年2月に釈放された徐勝さん(写真中央)

 「日本にいる僑胞は韓国人としての意識はもってはいても、それはどこまでも基礎的なものにすぎず、差別されるが故に自らが韓国人であることを感じ、意識する。逆にいうならば、積極的な意味での真の民族意識を自覚し得ないのだ。積極的民族意識というのは、自国の歴史、文化、伝統、言語その他すべての事柄を深く理解し、認識し、それらを愛し誇りとすることであり、そして実際に豊かな統一された、世界に誇るに足る祖国を持つことであり、さらには全民族的一体感を確固とし、紐帯を強めることである。このような三つの条件を内容として、積極的民族主義が成立するものと私は考える」

 つまり、彼は差別されている在日韓国人が差別と対峙する主体性を確立するには積極的民族主義の定立が不可欠と考え、積極的民族主義の形成の条件として、第1に自国の歴史、文化、伝統、言語を理解し、愛すること、第2に統一された世界に誇るに足る祖国を持つこと、第3に全民族的一体化感を持つことを挙げた。つまり、在日韓国人の解放と南北朝鮮の統一を不可分の課題として提起したのだ。

 私はこのとき彼の陳述を法廷で傍聴して、素晴らしい人物が現われたと思った。

 この年12月7日の彼に対する控訴審判決は無期懲役だった。翌73年3月13日に大法院は上告を棄却し、無期懲役が確定した。

 78年5月27日に徐俊植は刑期満了となったが、非転向を理由に社会安全法に定められた保安監護処分を科され、収監を継続させられた。この処分の期限は2カ年だが、彼はこの処分を4度更新された。彼は1982年5月27日に行われた2度目の処分更新の時から、処分更新のたびに法務部長官を相手どって「保安監護処分無効確認請求」の訴訟を継続して起こした。

朝鮮解放と人間解放

 徐俊植は3度目の処分更新に対して行った2度目の「保安監護処分無効確認訴訟」の際の83年3月11日付けの陳述書で次のように述べた。

 「幼時から異国において悲哀の中で成長した私にとって、『人間解放』とともに、『民族解放』は思想の何より重要な『実体』であった」

 そして彼は韓国の外国巨大資本への隷属から脱却するには「民族的自立と統一への決断がなければならない」と強調した。彼も兄と同じく民族差別を受ける在日韓国人の人間解放の課題に思想的出発点を置いて、統一を通じた民族解放の達成を展望した。

 86年5月27日に4度目の処分更新を受けると、彼はまた訴訟を起こすと同時に、社会安全法の撤廃と身柄の釈放を要求して翌年3月3日から51日間ものハンガーストライキを行った。その結果、彼は1988年5月25日に保安監護処分を居住場所を制限する住居制限処分に減じられて出獄。

 徐俊植が出獄できた原因は、彼自身のたたかいと共に、韓国の民主化運動の発展にあった。87年6月には「6月抗争」、すなわち朴正熙政権を継承した全斗煥独裁政権に対して大統領間接選挙制を直接選挙制にすることを中心にした憲法改正を要求する大規模な民主化運動が起こった。この結果、韓国国会は10月12日に大統領直接選挙制憲法を議決し、同月27日に国民投票により承認。同年12月16日の大統領選挙で当選したのは軍部候補の盧泰愚だったが、ともかく民主化への道が開かれた。

 民主化運動の前進の結果、徐勝も88年12月21日に無期懲役から懲役20年に減刑された。徐勝は89年5月から翌年2月にかけてその他の政治囚とともに良心囚の釈放や「国家保安法」などの撤廃を求めてハンストを繰り返した。その結果、90年2月28日に非転向のままで釈放された。

 この間、日本で徐兄弟救援を行った団体は「徐君兄弟を救う会」をはじめ、徐俊植の中学、高校の同窓生で構成された「徐君兄弟を守る学友の会」「徐君兄弟を守る文学創造者と読者の会」「徐さん兄弟を守る会」「徐君を守る東京教育大学同窓生の会」を再興して80年に再発足した「徐君を守る東京教育大学元教官・同窓生の会」など。

 「徐さん兄弟を守る会」の運営は会費制でなくカンパによって財政を支えたが、財政的に困ったことは一度もなかった。71年から90年までの19年にわたる救援運動が、なぜ財政的に困ることもなく、順調に継続できたのか。

 その1つの原因は、私はカンパの領収証を送る際に感謝の言葉と共に、自分が考えていることなどを記した。これが私と会員一人一人との信頼関係を築く機能を果した。しかし根本的原因は徐兄弟の思想とたたかいに対する日本人の感動や共感にあった。

 会員には、日本人が朝鮮に対して行ってきた民族差別に対する痛みや、他者の痛みへの共感があった。熱心な会員だった三重県の福森文は、戦前朝鮮に住んだ頃に見た日本人の朝鮮人に対する差別や朝鮮人の彼女に対する温かさが忘れられず、「朝鮮の人のことをいうと、じっとしておれず、『なにかしなければ』という気が起こる」のだった。また彼女は「徐兄弟の今は亡くなったお母さんは囚われた息子に会いに60回以上も韓国にわたったそうですな。資料で読んで、こたえました。親の気持ちが痛いほどわかるからです」「他人の痛みがわからなければ、あかんですよね」と言った(徐さん兄弟を守る会編・刊「日本人と在日韓国人良心囚徐兄弟−日本民衆運動の記録」94年)。

各界各層に広がる

 また徐兄弟のたたかいは、差別と抑圧とたたかっている日本人を励ました。差別や抑圧に対してたたかっている重度身体障害者である掛貝淳子は、「徐兄弟がたたかっている姿は私にとって支えであったと気づかされる」と記した。また「逆境の中に立ち、どんな弾圧にも負けず、死すら恐れず、意志を貫き通す彼等に、今なお次々に襲いかかる私自身の諸問題に立ち向かっていくエネルギーを与えてくれているという気がしてならない」とも記した(掛貝淳子「朝鮮・徐兄弟への私自身の思い」、徐さん兄弟を守る会「徐さん兄弟救援報告」第26号、85年3月16日)。

 立石和也は「救援活動をしているつもりが、実は、獄中に身を置く二人から、人間として、日本人としての生き方を教えられているのである」と記した。その意味は次のようである。

 「徐勝氏のことばに『私個人の問題というより、この問題を通して、日本人と韓国人の歴史的溝、また在日僑胞二世三世と日本人との溝が埋められていくような気がする』というのである。真に私は、日本人の一人として、徐さん兄弟の生き方を通じて、この溝を埋めることを学んだ」(『徐さん兄弟救援報告』第26号、85年3月16日)。

 徐兄弟を釈放させた主要な力は、本人のたたかいと韓国の民主化運動にあり、日本人の救援運動は脇役に過ぎなかった。しかし、在日朝鮮人の主体形成の課題から出発して南北朝鮮の統一を通じた民族解放を展望する徐兄弟の獄中のたたかいは、以上のように日本人の徐兄弟救援運動が媒介となって多くの日本人の間に彼らの思想と生き方に対する共感や日本人の朝鮮人に対する歴史的責任感の確認、日本人の生き方の検討などを呼び起こした。これが私たちの救援運動が果した歴史的役割だったと思われる。

[朝鮮新報 2010.7.12]