〈続 朝鮮史を駆け抜けた女性たちQ〉 王の歯科医にのぞまれた−張徳 |
女性たちに医学教育 虫歯の治療は張徳に
ドラマ「大長今」でおなじみの、長今の師匠のモデル張コは実在の女性であり、朝鮮王朝実録にもその名が登場する。 「済州島の牧使許熙に馳書し、『歯の病を治療する医女張コはすでに亡く、これ(歯痛の治療)を知っている者もいないので、歯や目、耳など数々の痛みの元となっている虫をうまく退治できる者ならば男女に関係なく抄録し送れ』と言った」(馳書濟州牧使許熙曰=治齒醫女長コ已死、今無傳業者。齒、目、鼻諸般痛處能取蟲人、勿論男女抄送)(朝鮮王朝実録成宗 19年、1488.9.28) また、その32年前にも、歯科医を探していた記録がある。 「済州島安撫使に諭して言うことには、『本州(済州島) の女医のうち難産と眼病、歯痛を治療できる者2、3人を選び送れ』と言った」(諭濟州按撫使曰=「本州女醫」能治難産及眼疾、齒痛者、擇二三人上送)(世祖2年、1456.1.24) この32年前の女医が張コかどうかは定かではないが、野史や野譚にも繰り返し「歯科の名医」として張コの名が登場する。朝鮮全土で有名だったのだ。野譚にある虫歯の治療は、抜歯後歯茎から白い虫を引きずり出すというホラーなものだが、本当に歯茎に虫がいたのではなく、神経治療の一種だと考えられる。俗に言う神経を抜くのである。手術の際の痛みの軽減のため、麻酔には針が使われたそうだ。
張徳を継ぐ者
儒教の影響下、女性たちは男性の医者の診療を拒み、命を落とすことが多く、これを憂慮し太宗6年(1406)に初めて医女が登場する。後の世宗王は医女育成に熱心で、地方でも10歳以上15歳未満の官婢を2人選び、濟生院で教育を施した後帰郷させ、地方の女性も医療の恩恵を受けられるようにした。医女誕生28年目のことである。成宗王の時代にはその制度がほぼ確立、3年間修練を積んだ後、成績順に内醫(女医)、看病醫(看護師)、初學醫(準看護師)として現場に派遣された。当然、高い知識を身に付けた彼女らは職業意識に目覚め、人の生死に関わりながら社会を目の当たりにする機会を得たことだろう。世界史を通して、近世以前国家的な規模で女性に医学教育を施し、多数の女医が活躍した事例はとても珍しいという。 興味深いのは、張コには弟子がいたということである。 「右承旨權景禧が言うことには『済州島の医女張コは歯蟲を退治し、鼻や目などのできものもすべて治すことができ、死ぬ前にその技術を私婢貴今に伝えました。国をあげて身分を引き上げ、医女に格上げし、その技術を広く伝えようと二人の女医を(弟子として)付き従わせましたが(その技術を)隠して伝えようとしません』」…「『女医二人を付き従わせたのにお前は隠して伝えようとしない。その利益を独り占めしようとするつもりだな? お前がもし最後まで隠すつもりならば、当然拷問にかけ審問することになるぞ、すべて言え』。すると貴今が言った。『私が七歳の頃よりこの技術を習いはじめ、十六歳になってやっと完成しました。今私が心を尽くし教えないのではなく、彼女らが習うに能わないからなのです』」(右承旨權景禧啓曰=「濟州醫女張コ」能去齒蟲、如鼻眼凡病瘡處皆去之。 將死、傳其術於私婢貴今、國家贖爲女醫、欲廣傳其術、使二女醫從行、貴今秘不傳。…「使女醫二人從行、汝秘不傳、必欲獨擅其利也。汝若固諱、當拷掠鞫問、其悉言之。貴今曰=我自七歳始學此術、至十六歳乃成、今我非不盡心ヘ、彼不能習耳)(成宗23年、1492.6.14) ドラマ「大長今」では、主人公が医女になるため張コのもとで血のにじむような努力をするが、貴今は実際に9年間、厳しい修行に耐えた自負を官吏に語る。地位も名誉も富も、人の命とは代えられない。能力がない者にはこの技術は教えられぬ、と。師である張コの人柄が偲ばれる。(朴c愛・朝鮮古典文学、伝統文化研究者) [朝鮮新報 2010.7.9] |