〈高句麗の豆知識-C-〉 煬帝の恫喝 |
隋の文帝が死んで、煬帝が登場した。煬帝の名前は楊広で、このとき37歳。 この楊広は聡明な人物であったらしい。
隋が国を統一する際には、最も手柄が大きかったとも言われている。
しかし勇、広、後、秀、諒の5人兄弟の次男なので王位を継げない。 楊広は勇をおとし入れ、父を毒殺して王位についたと言われている。 煬帝は王位につくと、文帝の始めた運河工事を拡大して大運河を完成させる。 黄河と淮河を結び、さらに淮河と長江(楊子江)を結ぶ大運河である。これは、秦の始皇帝の万里の長城築造以上の大工事だった。 この南北を貫く大運河は、実用の面で有意義な大事業だった。 大運河は高句麗遠征のためにも、兵力と物資の集積のためにも、大きな役割を果たした。 南方の林邑(現在のベトナム)を平らげ、台湾を征服し、西方の青海、新彊を攻略して東南西北のうち東を除いたところはすべて抑えた隋にとって、ただ残すところは高句麗だけ。 北狄、西戒、南蛮、東夷のうちの東夷、すなわち高句麗だけが意のままにならない。 東夷の「夷」という字は、弓と人が組み合わさるように象られている。高句麗が強い弓を持っていたからだろう。ちなみに鉄を指す場合も、昔は「夷」に金偏をつけ「銕」と書いた。東夷の鉄の文化、鉄の歴史から由来するのだと思う。 古朝鮮以来の長い鉄の歴史と鉄の鍛え方も、中国では鋳型が主流だが、朝鮮の方は叩いて作る鍛鉄が主流だった。 強い弓と強い鉄を持つ東夷である。 隋の煬帝は、先帝の雪辱戦でもある高句麗侵攻の準備をする。 一方、高句麗も近隣との外交努力をしていく。 高句麗は突厥の啓民可汗に使者を送り手を結ぼうとする。 そこへ行幸に来た煬帝と鉢合わせてしまう。煬帝は高句麗の使者に「汝の国の王は、なぜ隋に来ないのか」と脅す。 「三国史記」には、煬帝の恫喝が次のように記述されている。その要点は「高句麗は小醜で混迷している。…その暴虐は無辜の民に及んでいる。…どの家も飢え苦しみ…のたれ死している。朕は六軍を統帥し、高句麗のきわめて危険な状態を救い、天意に従って高句麗をせん滅するとともに先代のはかりごとを受けつぐ」。 なにか、最近どこかの超大国の大統領がウリナラに対して発した言葉とよく似ているではないか。 高句麗は大変な緊張に包まれる。 高句麗の王も、平原王から嬰陽王に代わっていた。(金宗鎮・在日本朝鮮社会科学者協会東海支部会長) [朝鮮新報 2010.7.9] |