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〈シリーズ・「韓国併合」100年 近代史を民衆の視点で解く 山田昭次さん−@〉 「朝鮮をわからずに、日本はわからぬ」

 80歳を迎えた山田昭次・立教大学名誉教授を招き記念講演会が3月22日、埼玉県所沢市内で開かれた(主催=NPO法人同胞法律生活相談センターシニア部会)。同氏はこれまで日本の近代史を、虐げられ差別され続けた民衆の視線から解き明かしてきた。とりわけ関東大震災時の朝鮮人虐殺について、日本政府の国家責任とともに、日本の民衆責任についても追及を続けている。山田氏の講演内容は次の通り。

朝鮮問題との出会い

講演する山田さん

 1964年5月から翌年5月まで歴史学研究会委員を務めたことが機縁となって、同じく委員で朝鮮近代史研究者の梶村秀樹氏との交流が始まり、また同会の綜合部会で在日朝鮮人歴史研究者である朴慶植氏や権寧旭氏らと知り合った。

 他方、65年になって立教大学教職員組合の一員として、「日韓条約」締結反対運動に参加し、在日朝鮮人研究者を招いて組合内部で「日韓会談」についての学習会を開催した。当時私が読んだ書籍は、安藤彦太郎、寺尾五郎、宮田節子、吉岡吉典編「日・朝・中三国人民連帯の歴史と理論」(日本朝鮮研究所)、「アジア・アフリカ講座 第3巻 日本と朝鮮」(勁草書房)などだった。

 この年の春に講義中に「朝鮮のことがわからないと、日本の近代はわからない」と言ったことが発端になって、権寧旭氏の助言を受けつつ学生有志数人と毎週読書会を開いて朝鮮民主主義人民共和国科学院歴史研究所編、在日本科学者協会社会科学部門歴史部会訳「朝鮮近代革命運動史」(新日本出版社)を読んだ。

 しかし、65年12月18日に「日韓条約」批准書の交換がなされ、同条約は成立してしまった。私は「朝鮮研究」68年1月号に「八・一五をめぐる日本人と朝鮮人の断層」を書いた。「日韓条約」締結反対運動が目的を達成できなかった思想的原因として、植民地支配国の国民だった日本人の意識が8.15以後も植民地支配の被害者である朝鮮人との間にある意識の断絶を克服できなかったことを挙げた論文である。

金鐘鳴先生

 67年の初めに 立教大学経済学部の偉いマルキスト教授2人から呼びつけられて、彼らの研究室で朝鮮大学校図書館長で朝鮮近代史研究者である金鐘鳴先生に引き合わされた。経済学部教授らは「金先生は、朝鮮人学校に対する統制のための外国人学校法制定の動きの阻止に協力を求めて来られた。お前は金先生の要請に協力せよ」と私に言った。私は協力を承諾した。私は「日韓条約」締結反対運動を継承して組合内部に組織された「平和と民主主義を守る立教大学実行委員会」の幹部だったので、呼びつけられたのであろう。

 それから運動の計画を練って、一週間後に経済学部教授たちにその計画を話すと、彼らは「立教には立教の事情があるのだから、そんなに焦らなくていいよ」といって、私の提案を検討しようともしなかった。金先生はその後どうなったかを問い合わせに何度かお出でになったが、経済学部教授たちは私の相談に乗ってくれないので、計画を運動化できなかった。当時新米の教員だった私は、偉い先生たちの同意を得ないでは動けないと思い込んでいたのだ。そこである日に金先生は遂に痺れを切らして「私はあなた方が動いてくれるまでは何度でも来ますよ」と言われた。

 私は先生のこの短い言葉にさまざま想いが込められているように感じた。この私の直感は間違っていなかった。後日、ご病気の先生のお見舞いにお宅に参上した際に、先生は戦争中に転向し、その負い目意識から一時たりとも逃れ得なかった苦しみや、大阪で部落民から差別された苦渋などを話してくださった。あの先生の言葉にはこの想いが込められていたのであろう。ともかく私は先生の言葉に深い衝撃を受けて、先輩の偉い先生たちが動いてくれなくとも、勝手に動き出す朝鮮問題運動家になった。

 先生からいただいた72年2月2日付葉書には「結局朝・日問題は双方間の誠実性のこもった行動を拡大し、蓄積していく方法以外にありえないと思います」と書かれていた。その後、先生は朝鮮民主主義人民共和国に帰国なさって83年頃に亡くなられた。しかしこの文面にも現われている金先生の誠実な人柄は私を心に深く刻みつけられ、それが私を朝鮮問題への本格的な歩みに導いた。

 それと同時に植民地問題に最も敏感なはずのマルキスト教授たちと朝鮮人の間の断絶をまざまざと見せられたことはそれまで予測していなかったので、私には衝撃であった。その衝撃は私の日本近代思想史研究に大きな影響を与え、日本の最初の民主主義運動である自由民権運動のアジア観をきびしく批判的に考察することになった。このために日本人左翼の研究者や教師からときに反発を受けた。

徐兄弟救援活動

 71年4月20日、韓国陸軍保安司令部は、韓国に留学中の在日韓国人徐勝・徐俊植兄弟など51人を朝鮮民主主義人民共和国のスパイ容疑で逮捕したと発表した。

 徐勝は45年に、徐俊植は48年に生まれ、2人とも京都で育った。徐俊植は64年に京都府立桂高校を卒業した後に韓国に留学し、朝鮮語教育を受けてから、68年にソウル大学校に入学した。徐勝は68年に東京教育大学を卒業した後に韓国に留学し、朝鮮語教育を受けてから69年にソウル大学校大学院修士課程に入学していた。

 この事件は大統領選挙戦で三選実現を目指す現職大統領朴正熙のライバルであって、南北朝鮮の和解・交流・平和統一を政策目標に掲げて民衆の支持を得ていた野党新民党候補金大中の落選を狙って起こされた政治的事件と思われる。尋問官は徐勝が朝鮮民主主義人民共和国の指令により反政府運動を操縦し、金大中に朝鮮民主主義人民共和国からの資金を届けたという筋書きを認めさせようとして拷問を行った。徐勝は拷問に耐え切れず、ストーブ用の軽油をかぶって焼身自殺を図って大火傷をした。

 71年5月29日、徐兄弟ら17人は「反共法」「国家保安法」などの違反容疑で起訴された。71年10月22日にソウル地方法院は、徐勝に死刑、徐俊植に懲役15年の判決を下した。

 それから間もない日に、日本人の民族差別発言に耐えかねて日本人を殺害したために裁判にかけられた金嬉老救援に尽力していた梶村秀樹は「自分は金嬉老救援で手一杯なので、君が徐兄弟救援に参加してくれまいか」と要請された。私はすでに「徐君を守る東京教育大学同窓生の会」が求める署名にも応じていたが、決心して彼の要請を受け入れた。徐勝は東京教育大学の後輩に当たる人だということも決心した理由のひとつだったが、「日韓条約」締結反対運動に従事したものの、韓国民衆の姿が見えなかったので、この際訪韓して韓国民衆の姿をこの眼で見たいという欲求もあったからだった。

 私は学内の友人と相談して、この年11月20日に「徐さん兄弟を守る立教大学教職員有志の会」を発足させた(同会は一般市民団体に発展して1978年12月に「徐さん兄弟を守る会」と改称した)。徐勝の火傷の治療のために兄弟は分離裁判を受けることになり、まず72年2月14日の徐俊植に対する控訴審判決は懲役7年を宣告し、同年5月23日大法院は彼の上告を棄却し、懲役7年が確定した。

 この年11月23日、徐勝はソウル高等法院の控訴審で最終陳述を行った。彼は自己が日本で民族差別を受けている在日韓国人の一員であることを思想的出発点に置いた自己の思想を次のよう開陳した。

[朝鮮新報 2010.7.5]