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〈歴史×状況×言葉 朝鮮植民地支配100年と日本文学〉 第6回 芥川龍之介(上)

野蛮な「桃太郎」と日本軍国主義と

関東大震災時、自警団によって多くの同胞が虐殺された

 日本で生まれ育った者ならば誰でも知っているであろう桃太郎物語。最も有名なこの「昔話」、今日定着しているストーリーとして成立し普及されたのは、そう遠い昔ではなく、実は近代以降のことである。物語成立事情をめぐるウンチクはさておき、読者諸氏は、こんな「桃太郎」があるのをご存知だろうか?

 その「桃太郎」では、鬼が島は美しい天然の楽土として描かれる。鬼の母親が子どもたちにこう教えている。「お前たちも悪戯をすると、人間の島へやってしまうよ。……え、人間というものかい? 人間というものは……手のつけようのない毛だものなのだよ」。そして桃太郎と犬猿雉の三匹のお供たちは、平和を愛する鬼たちの島を犯し、鬼たちに「建国以来の恐ろしさ」を与えるのである。「進め! 進め! 鬼という鬼は見つけ次第、一匹も残らず殺してしまえ!」。桃太郎の命令に、犬は鬼を噛み殺し、雉は嘴で鬼の子を突き殺す。猿も「我々人間と親類同志の間がらだけに」、鬼の娘を絞殺する前に「必ず凌辱を恣にした」。許しを請い、島に攻め入ってきた理由を尋ねる鬼の酋長に対し、ただ鬼が島を征伐したかったからだと、理由にならぬ理由をのたまう桃太郎−。

 もはや子ども向けの英雄譚とはまるで逆の、アジアへの野蛮な侵略を敢行した日本の軍国主義の喩となっていることは容易に窺えるだろう。この「桃太郎」が書かれたのは1924年、作者はかの芥川龍之介である。

 作品はこう続く―人質にした鬼の子どもに宝物の車を引かせ、得々と故郷へ凱旋した桃太郎は「必ずしも幸福に一生を送った訣ではない」。鬼の子は一人前になると番人の雉を噛み殺し島へ逃げ帰る。生き残った鬼たちは時々海を渡って来ては、たびたびと復讐を試みる。「何でも猿の殺されたのは人違いだったらしいという噂」だ。桃太郎は、鬼の「執念の深いのには困ったものだ」と漏らし、犬は「やっと命を助けて頂いた御主人の大恩さえ忘れるとは怪しからぬ奴等でございます」と唸る。その間にも島では鬼の若者が五六人、島の独立を計画し、椰子の実に爆弾を仕こんでいた……。

 多言を要さずとも、物語の梗概を記すだけでよかろう。「人間」を猿に似せ、その忠実な走狗たる犬の配置など辛辣な風刺が散りばめられているこの「桃太郎」は、「人間(日本人)」の野蛮さ残虐さのみならず、侵略された鬼の反抗をも描く鋭い視点がある。

 1919年、朝鮮で起きた3.1運動と連動し中国では5・4運動が起こるなど、反日感情が爆発していた。その後間もない1921年、芥川は中国視察旅行にて清朝末期の革命家章炳麟と会見する。章の「予の最も嫌悪する日本人は鬼が島を征伐した桃太郎である」という言葉に芥川は「先生はまことに賢人である」と感服した。この体験が、後の「桃太郎」を書かせる契機となったことは言うまでもない。

 典型的な日本男児として理想化され教育・メディアによって普及された桃太郎像は、戦前の軍国少年として、戦後は日本の高度成長を担う経済戦士の喩となり、人気の鉄道会社ゲームの主人公とさえなって、そのイコン(図像)は変容を繰り返しながら今日なお生きながらえている。はるかに先立って桃太郎像を反転させつつ、日本帝国主義を批判して見せた芥川の認識は、殺された「鬼」たちの感情、そして2000年代アジア各地で噴き出した「反日」の声とともに、帝国主義の手先たる無数の「物語」にすっかり慣れ染められている、私たちの蒙を啓く言葉となって響くだろう。とくに「桃太郎」を書く前、芥川は関東大震災での朝鮮人虐殺の現場に立ち会い、「我我は互いに憐まなければならぬ。況や殺戮を喜ぶなどは」と記した。日本民衆が示した朝鮮人への残虐性は、そのまま「桃太郎」のものでもある。次回芥川の朝鮮への視線、歴史認識にさらに迫りたい。(李英哲 朝鮮大学校外国語学部准教授)

[朝鮮新報 2010.6.28]