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〈続 朝鮮史を駆け抜けた女性たちP〉 夫を真の学問に導く−韓氏

「妻は師であり友だった」

韓氏の夫−宋能相

韓氏(イメージ、アン・ヨノク画)

 宋能相(字は士能、号は雲坪、1710〜1758)は朝鮮朝後期の性理学者であり、宋時烈(1607〜1689、朝鮮朝中期の文臣、学者)の玄孫である。仕官に興味はなく、学問に専念、20歳前後にはすでに大学者として名声を得る。1740年に業績を認められ世子侍講院諮議(世継ぎの王子の教師)に、以降掌令(法務省と人事院を合わせたような機関である司憲部の構成要員の呼称)、掌樂院正(宮中の音楽、舞踊をすべて管理した官庁の筆頭)を歴任。晩年は職を辞し、妙香山に入り学問と研究に余生を送った。「周易」に明るく、とくに禮學に造詣が深かった。著述に「雲坪集」がある。

 上記のように、韓氏の夫−宋能相については最小限であっても百科事典に記載があり、その著書が今に伝わる。仕官に興味がなく、科挙を受けずに王子の教師に望まれたということは、その学識の高さを想像できる。

 だが、このように立派な学者であった宋能相は、妻―韓氏のことを「師」と呼んだのである。

学識のある女性

大学者・李珥

 韓氏および宋能相と同時代人であった女性学者−任允摯堂(1721〜1793)は、自著「允摯堂遺稿」中の「宋氏能相婦傳」(宋能相の妻伝)に、韓氏を「夫を学問の世界に導いた女性」と記している。

 韓氏は夫と夫の兄弟たちが李珥(号は栗谷、大学者、1536〜1584)を慕うと言いながらも、実はその徳を敬うのではなく高い身分に憧れているだけだということを見透かし、夫とその兄弟たちを批判、その見識に感服した夫は見せかけの学問ではなく真の学問に目覚め、たゆまぬ努力のすえ立派な学者になったとある。

 韓氏が当時の女性教育書が奨励するように、家事と身繕い(=おしゃれ)、食事(=グルメ)と子育てにしか興味がない、社会に興味がなく、本も読まず、自分の頭で考えない女性だったとしたら、このような見識は当然生まれようもなく、また「しとやかで従順」な女性であったなら、夫のみならずその兄弟たちを批判するというようなこともなかっただろう。韓氏が学識のある、自身の主義主張を持つ、堂々とした女性であったということはほぼ間違いないだろう。

宋時烈の書

 また、允摯堂は「宋氏能相婦傳」に、彼女は学識があり夫を正しい道に導いただけではなく、父親に孝行であると書きながらまた、孝道、婦徳、学識の調和がとれた女性であることを強調している。(既孝於親、又達厥識、引夫當道、勵志爲學)

 実際、夫である宋能相は妻を送る祭文に、(自分が)外出しなくとも妻が師と友人を兼ねてくれたから(大丈夫だった)と告白しながら、妻の死によって自分の過ちを指摘し補う者はすでになく、(自分が)胸襟を開き話す相手もいなくなったと悲しんでいる。

 「師友之u、不出戸庭、如其常在、爲我耿光、幽明一隔、話言莫通、孰補我過、孰開我胸」(「雲坪集」巻八、「祭故室孺人韓氏」)

 師であり、友であり、また愛する女性であったということだ。

生の本質

祭文(亡くなった人を悼む書)

 朝鮮王朝時代の女性やそれ以前の女性の生涯についての記録は、ほぼ皆無に近い。歴史的事件にまつわる瞬間の記録や、犯罪記録、王族や偉人の母や姉、一世を風靡した妓生でもない限り、その名すら伝わらないことが多い。絵師や医女として名は伝わるが、ただそれだけか、あるいは2、3行の短い記録しか伝わらない場合も多い。

 韓氏の場合、夫が彼女の生の片鱗ではあるがその本質を書き残し、同時代人の任允摯堂によってその人物像に客観性がもたらされた稀有な例であろう。

 韓氏が允摯堂のように何か書き残していれば、いや、天才であった夫に師と呼ばれたほど聡明な女性だったのだから、書き残したものがあるのかもしれない。どこか人知れず伝統家屋の倉の隅で、柳行李に入れられて保管されていることを願うばかりだ。(朴c愛・朝鮮古典文学、伝統文化研究者)

[朝鮮新報 2010.6.4]