〈歴史×状況×言葉 朝鮮植民地支配100年と日本文学〉 第5回 有島武郎 |
「行け。勇んで。小さき者よ」
有島武郎(1878〜1923)に出会ったのは、高校1年生の頃、教科書に収録されていた「小さき者へ」(1918)だった。病で母親を亡くした3人の幼い子どもたちに向けて書かれた作品である。厳粛な文体が、高校生活を無為無気力に送っていた当時の筆者の心の中に強い印象を焼き付けた。作品は、単なる父親の情愛だけではない、有島自身の人格的な弱さに対する率直な吐露が滔々となされており、筆者も自分の父親へのまなざしに人生の複雑な屈曲を与えられた。「何故二人の肉慾の結果を天からの賜物のように思わねばならぬのか」という父親のエゴの告白は、両親への思いに消えない一点の墨痕を残した。自分の存在も「肉慾の結果」なのかと、思春期ただ中の苦悩を味わわされた。 日帝が朝鮮強占を遂げた1910年、武者小路実篤、志賀直哉らによる同人誌「白樺」が発刊され、そのメンバーを中心に形成された白樺派は、1910年代の文学の中心となった。その様々な思想的弱点はつとに指摘されている。ところで植民地朝鮮に対しては、白樺派周辺にいた柳宗悦などを除けば、必ずしもはっきしりした視点は見受けられない。だが白樺派の中でも特異な存在であった有島武郎は違っていた。 有島は軍隊に徴兵された後、「我国家を何に譬へんや。糞桶の蓋の如し」と反軍思想にとどまらない国家批判の考えを早くから示していた。彼は米国留学を通じ無政府主義や社会主義思想に出会い徐々に傾倒していく。日露戦争開戦時のトルストイの反戦論に感激し、ヨーロッパ留学時には無政府主義者クロポトキンと出会い、幸徳秋水あての手紙を託されて帰国した。
有島武郎の思想と文学、そして晩年の知識人としての階級的苦悩と農民への土地解放といった試みは、白樺派が誕生する以前のこうした経歴と切り離せない。有島は、最晩年の石川啄木よりも思想的には先立って、反国家主義、反資本主義、加えてインターナショナリズムの立場から日本社会を批判し、大正期文学者たちのやせ細った政治意識を「ほとんど唯一突き破っていた」(鎌田哲哉)存在だった。
その思想は朝鮮支配への批判をも抱懐していた。1907年「ハーグ密使事件」後強制された「第3次日韓協約(丁未7条約)」に際し、有島はスイス人女性マティルダ・ヘックへの手紙で「僕は心の底からこのような政治家や愛国者を憎みます。(中略)朝鮮を助けるという口実のもとに、日本はかの国を強く支配して、その内閣を傀儡にしてしまったのです」(原文は英文。小玉晃一訳)と書き、この手紙の8日後協約成立の報せを受け一日だけ日記帳を開いた彼は、「我レハ亦弱者ヲ圧制シ盗賊ノ如ク掠奪ヲ事トスル人ヲ見タランニハ義憤ヲ発シテ彼ヲ詰責ス可キ意気ト勇気トヲ有セリ」と書いた。さらに1909年7月6日、「韓国併合」閣議決定の際には、「この日、朝鮮民族の心情やいかんと涙する」と記した。 大正デモクラシーの雰囲気に浮かれ底の浅い人道と理想を振りまく一方、国家、資本主義、戦争への批判も、朝鮮支配への認識も欠落した当時の知識人らの姿は、今日の風景と重なって見える。有島武郎の言葉は、繰り返し読み直されなければならない。 朝高1年生の日本語教科書には、今も「小さき者へ」が収録されている。わが子らにありのままの自己をさらけだした有島は、最後にこう言う。「前途は遠い。そして暗い。然し恐れてはならぬ。恐れない者の前に道は開ける。行け。勇んで。小さき者よ」−情勢は暗く、あるべき権利から暴力的にはじかれようとしている幼き朝高生たちに向かって、世の父親たち、そして今や2児の父親となった筆者もまた、堂々とこの言葉を呼びかけられているだろうか。自分にその資格があるかと、自戒を込めて呟いてみるのだ。「行け。勇んで。小さき者よ」と。(李英哲 朝鮮大学校外国語学部准教授) [朝鮮新報 2010.5.31] |