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〈高句麗の豆知識-B-〉 隋の文帝、高句麗を攻める

楊堅

 中国は多くの国が入り乱れ、内戦が続いていた。

 しかし、ついに589年、楊堅によって統一された。

 隋という超大国の出現である。

 これは、強国高句麗にとって大きなプレッシャーになった。

 早速、隋は高句麗を恫喝した。

 「王は遼河が広いと考えているようだが、とても長江とは比較にならない。高句麗の人口が陳に匹敵するであろうか?」と、陳を滅ぼした隋が高句麗に言う。

 さらに「朕がもし高句麗を存続させようと思わず、王の前非を責めるならば一將軍に命ずるだけで、どうして大軍を動かす必要があろうか」(「三国史記」)と軍隊を送る前に、早めに文帝のところに頭を下げに来いと脅かしたのだ。

 時の高句麗の王、平原王は朝廷会議を開いた。

 攻めて来るなら迎え撃つということで朝議は一致した。

 これは、こしゃくな高句麗が! ということで文帝を怒らせた。

 積年の恨みがある。漢の時代は中国の領土であった。それを今では高句麗が支配している。これは許せないということで、文帝は30万の大軍を高句麗遠征に差し向けた。

 文帝は先に脅かしの使者を高句麗に遣わしながら、営州にすでに先兵部隊を集結させていた。それに対して高句麗はすぐに営州の隋軍の基地を叩いて引き上げた。

 高句麗と隋の軍事力がぶつかりあった。文帝は水陸30万、後方軍70万で侵入を開始した。598年だ。

 文帝の第五子の楊諒が、6月に国境の遼河に攻めこんできた。遼河というのは2200キロの長い河。

 遼河の戦闘には隋側にあまり詳しい記録がない。

 ただ「隋軍、渡河出来ず。死者10人のうち8、9人」とある。戦闘については書いてない。梅雨時の長い雨で伝染病にたたられて引き上げた、としか書かれていない。

 文帝の軍は、遠征に失敗して帰ったのだ。

 すると高句麗というのはしたたか。

 すぐさま使者を送った。もう戦争はしたくないという。

 高句麗の王は、隋との外交交渉のなかでは自らを「遼東糞土の臣」と卑しめて、なんとか戦争を回避しようとしている。

 これをもって日本の学者の中には、高句麗が弱いからだと、言っている人がいるが、外交努力なのだ。

 その後の実際の歴史が、それを証明している。

 世界戦史上特記すべき隋の第一次高句麗遠征は失敗に終わった。(金宗鎮・在日本朝鮮社会科学者協会東海支部会長)

[朝鮮新報 2010.5.21]