top_rogo.gif (16396 bytes)

〈遺骨は叫ぶ〉 35回の連載を終えて

「韓国併合」100年、今こそ謝罪と償いを 「地底からの呻き声 耳を傾けよ」

恵明寺口のそばに建っている「朝鮮人犠牲者追悼平和祈念碑」

 日本の韓国併合から100年になる今年は、日本が朝鮮人強制連行を始めてから73年でもある。だが、日本と韓国・朝鮮、また日本と中国との歴史問題はいまだに解決していない。また、清算しようとする動きも見せていない。

 日本政府が動かないのならまず自分から動こうと、日本に強制連行された中国人が働かされた135事業所の現場を、2001年から歩きはじめた。その現場にはすでに10年近くも前に朝鮮人が連行されているので、中国人と朝鮮人を一緒に調べた。花を供えて黙礼をしたあと現場を歩き、生存者や資料を捜した。

 しかし、敗戦50年後の現場(とくに炭鉱や港湾荷役)は昔の形をとどめているのが少なく、実際に働かされた朝鮮人や中国人はもちろんのこと、日本人関係者を見つけることも難しくなっている。それでも現場を歩くと、かつて過酷な長時間労働をさせられたうえに十分な食事も与えられず、日常的に殴る蹴るの暴行を受け、重病やケガでも治療を受けられずに死んでいった朝鮮人や中国人の苦痛の叫びが聞こえてきそうだった。

 労働現場や居住した跡を訪ねてもっとも心が痛むのは、殺された朝鮮人の遺骨が今も埋められたままになっている所を歩く時間だった。北海道の果てとも言われる野付郡別海町には、アッツ島の日本軍が全滅するという戦局が悪化している時に、アジア太平洋戦争時の日本最大の計根別飛行場が造られた。

 この工事には約3千人の朝鮮人が強制労働をさせられたが、事故や病気での犠牲者の数ははっきりしていないものの、400人は下らないと伝わっている。しかも、滑走路の底へスプリング代わりに約100体が埋められたという元現場監督の証言で、1992年に2回掘ったが遺骨は見つからなかった。飛行場跡は現在は広大な牧場となり、青々と草が伸びていた。滑走路だった所は、コンクリートの破片が散在していた。牧場を歩き、牛の群れを見ながら、遺体を踏みつけているのではないかと思い、地の中から「早く祖国に帰してくれ」と叫んでいるように感じた。

過酷な労働、飢え、疫病

幸生鉱山の墓。氏名などは刻まれていない(山形)

 北海道の北端・稚内市の近くに宗谷郡猿払村がある。アジア太平洋戦争の末期、この地に浅茅飛行場が建設された。工事に動員された労働者の主力は朝鮮人連行者たちで、1500人とも4千人ともいわれている。朝鮮人たちの仕事は原野に飛行場を造ること、飛行機を隠す掩体壕を建設することだった。作業は厳しいうえに一日の労働時間が15時間前後に及び、しかも少量の食事に苦しんだうえに、発疹チフスが流行した。朝鮮人犠牲者の数は不明だが、300人くらいと推定されている。朝鮮人が埋められた場所を北海道フォーラムが発掘を続けているが、私も2009年5月の連休に3日間参加した。スコップで掘ると、骨がいくつも出てきた。土がこびりついて黒くなっているが、手でその汚れをふき取ると白くなった。暗い土の中に60数年も埋もれていた骨を浅春の陽に当てて、「明るいでしょう。やっと出られましたね」と心の中で言った。

 骨の主の名前はわからないし、どんな殺され方をして埋められたのかはわからない。骨は何も語ってくれない。だが、朝鮮人を日本に連行し、過酷な労働をさせられて死んだり、また日本人に殺された人たちのことは、そのもの言わぬ骨に聞いて語ってもらうことが、日本政府や私たち日本人に求められているのではないだろうか。

列島各地に散らばる

雑木林になった旧鉱山内に今も残っている高い煙突(北海道)

 今回の「遺骨は叫ぶ」では、朝鮮人連行者が強制労働させられた35カ所の現場を書いた。現場を歩き、残り少ない資料を調べ、体験した人を見つけ話を聞いたが、犠牲になった朝鮮人が呻く声が聞こえた。だが、その声は現場に足を運ばなければ聞こえてこないのだ。しかもその現場は、敗戦後の長い歳月のなかで風化をはじめ、資料は十分に残されていないうえに、連行や強制労働の事実を語れる人はいまやほんのわずかになった。そして私たち日本人は、犠牲者の骨から聞く心をだんだんと失ってきている。

 実際に歩くと、日本のいたるところに強制連行されて犠牲になった朝鮮人・中国人の遺骨が散らばっている。しかも、なぜ散らばっているのかを知らない人が多くなっている。一方、連行された人の家族たちはいまでも、生きて帰ってくるのを待っているという。せめて事実と遺骨を掘り起こして遺族の元に帰してあげることが、日本政府の、そして私たちの責務ではないだろうか。(野添憲治・作家)

[朝鮮新報 2010.5.21]