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〈遺骨は叫ぶ-35-〉 茨城・日立鉱山

野原で「これでよかっぺ」と連行 待遇改善要求すれば、棒頭たちが鎮圧

日立鉱山の入口

 JR常磐線の電車が日立駅に近づくと、多賀山地に日立のシンボルとなっている日立鉱山(茨城県日立市宮田)の大煙突が見える。

 日立鉱山は古くは赤沢銅山と呼ばれ、その開発は1591年と古い。一時中止されたが明治になって再開。日露戦争後に久原房之助が買い取って日立鉱山に改称した。第1次世界大戦を機に飛躍的に成長を遂げ、小坂(秋田県)、足尾(栃木県)、別子(愛媛県)とならぶ、4大銅山の一つになった。また、1931年の満州事変で軍需産業が活況となり、さらに日中戦争の勃発で、戦局が激しくなるに従って、戦場での武器弾薬などの軍需品がいっそう必要となり軍需生産が急がれた。

 戦時下の日立鉱山では、石炭などの原材料の入手難とともに労働力が不足し、とくに鉱山部門では深刻になった。勤労報国隊・女子挺身隊・学徒動員などを次々と動員した。それでも労働力不足は解決できないので、朝鮮労務協会に申請して朝鮮総督府から募集を許可されると、日立鉱山の労務担当者が朝鮮に行き、朝鮮人を強制連行してきた。

 そのときの様子が、「徴用する者はもうほとんど強制的なんだね。あの年配の者を見て、野原でこれいいんじゃないかっていうことで、これよかっぺっていうことで、だめだって言っても、いや、いいだねえかって」(「県民の生活聞き書き集」第13号)とトラックに乗せて連れてきたと、朝鮮人を集めに行った労務担当者の話が収録されている。

 朝鮮人連行者の第一陣が日立鉱山に到着したのは、1940年2月14日だった。第二陣は3月17、18日に来たが、それ以来45年1月まで15次にわたる連行が繰り返された。この間に「日立鉱山に連行された朝鮮人は、延べ4千人を超えていた。朝鮮人動員数(男子)は、1940年5月に鉱員の8%強を占めて、以後、急速に増え続けた。1944年には、全鉱員の3割が朝鮮人鉱員で、しかも坑内鉱員全体のほぼ半数を占めていた。この時点では、中国人鉱員も就労していたので、全鉱員の34.3%、坑内鉱員の54.9%が朝鮮人と中国人であった」(「茨城県の百年」)。戦時下の増産体制を維持するために、不足する日本人労働者を補填したというよりも、日立鉱山の生産活動は、朝鮮人、中国人連行者をぬきにしては考えられなかった。

日立鉱山の大煙突

 しかも、15次にわたる直接連行の他に、日本鉱業傘下の他鉱山に連行された朝鮮人が転入してきた。旭日鉱山(兵庫県)、河津鉱山(静岡県)、大谷鉱山(宮城県)、高玉鉱山(福島県)などからだが、経営の異なる鉱山からも来ていた。

 では、こうして日立鉱山に連行された朝鮮人の生活や労働はどうだったのだろうか。

 飯場の中は「畳と言ったって表はありませんよ。下の藁だけ。それで、蚤がなんぼでもおるのだ。7〜8畳敷ぐらいの部屋に、12人ぐらい住みました。窓はガラス戸じゃなく、上から戸板を下げたようなものなので、開けておくときは、それを棒で支えておくのです。構内の入口には、夜も見張りが立っていました」(「在日朝鮮人史研究」第7号)。飯場の周りに塀や鉄条網は張っていなかったが、夜は飯場の外に電球をつけ、高い山に見張りが12〜13人もおり、12時間交替で見張っていた。

 日本に来るときは、坑内には入れないという約束だったが、実際には、坑外に何人も置かず、ほとんど全部が坑内に入れられた。約束が違うと騒ぐと、鉱山の棒頭に叩かれた。朝鮮人の仕事は、坑内で「鉱石を車に積む仕事でした。三交替、8時間労働です。鉱石というものは重いものですよ。それを車に積むのに力一杯だったね。病気になっても、怪我をしても、医者がなかなか証明をくれない。証明がないと食券をくれない。食券がないと食事ももらえないから、病気になっても怪我をしても、食券欲しいから坑内に入る者がいっぱいおったね」(「日立戦災史」)と語っている。

 「食事は食券を持っていってもらうんです。ご飯は、さつまいもやジャガイモが半分ぐらい入っているよね。米は南京米が主だったね。食事の量がたらん」(同)ので、朝鮮人はいつも空腹だった。厳しい仕事に食糧不足のため、逃亡や食堂管理人への改善を要求する動きが起きた。だが、改善要求は受け入れられることがなく、いつも棒頭たちに鎮圧された。

 日立鉱山に強制連行された朝鮮人たちの実態は、市役所も戦災で焼けたので、資料はほとんど残っていないという。ケガ人や病人の数はもちろんのこと、死者たちの数もわかっていない。鉱山内にある本山寺の「過去帳を調べたところ、1940〜1945年の間に56名の死亡者氏名が載っており、遺骨30体が置いてあった。遺骨には、氏名不詳4名、名簿に氏名の記載がないもの8名があって、合計68名の死亡者がわかった」(「朝鮮人強制連行の記録」)という。2009年初冬に2度目の調査に行ったが、これ以上の資料も記録も見つけられなかった。(作家、野添憲治)(おわり)

[朝鮮新報 2010.5.19]