〈渡来文化 その美と造形 15〉 東大寺−毘盧遮那仏 |
東大寺の金堂(大仏殿)や中に安置された「奈良の大仏」として親しまれる「毘盧舎那仏」の大きさに人々は圧倒される。 高さ約15メートル、重さ約452トンの大仏は、銅499トン、錫8.5トン。金440キロ、水銀2.5トンなどを使用した金銅仏である。 完成時には、全身が金色に輝き、紺青の螺髪、赤い唇など色鮮やかで、台座の28枚の連弁には千体の金色の釈迦仏が線刻される。鍍金用の金を提供したのは陸奥守(今なら宮城県知事)百済王敬福であった。 巨大なこの像は8回に分けて鋳造され、3年を費やして749年に完成した。銅を溶解するための炉やそれに付随する各設備、鋳型の枠組み、金メッキなど、さまざまな職種の人々が動員された。その数は、金知識(鋳造技術者)約37万5千人とその役夫51万5千人、木材知識(木工)約5万2千人とその役夫約166万5千人、総数260万人余りであったと記録にある。 大仏の造立に当った技術者として、国中連公麻呂を長に、高市真国、高市真麿、柿本男玉、猪名部百世、益田縄手などが協力した。 国中連公麻呂は、東大寺の前身である金光明寺の造仏長官を務めており、祖父は百済で徳卒(四品官)の地位にあった国骨富であった。 彼は、大仏造立の功により「造東大寺司次官」従四位下に叙せられている。 創建以来何度もの戦いや天災などに遭い造立時当初のものは、腹部、両足、台座の蓮弁などであるが、蓮弁の一枚一枚に毛彫りされた釈迦の線刻像は絵画と見まがうほどに見事である。 東大寺建立に際して大きな役割を果たした僧・行基は、全国に勧進(募金)を行い、また、多数の信徒を率いて寺の完成に貢献した功により大僧正の称号が与えられている。 父は百済系渡来氏族西文一族の高志才智である。 行基は関西を中心として30数個寺を建立、さらに、布施屋などの社会事業、道路、橋梁、堤防、溝池、港などの開設、構築に多大な事績を残している。 行墓の弟子であった良弁(百済人)も東大寺の造営に力をつくし、開山として初代の住持となった。 してみれば、大仏も巨大だが、これを造立した渡来人たちはもっと偉大であったろう。(朴鐘鳴 渡来遺跡研究会代表、権仁燮 大阪大学非常勤講師) [朝鮮新報 2010.5.17] |