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〈続 朝鮮史を駆け抜けた女性たちO〉 嫉妬のために殺された−高邑之

法にも見離された奴婢

むごたらしい遺体

高邑之(イメージ)

 1478年1月、敦義門の外の崖下で、首を絞められた末、刀物で全身を切り刻まれた少女のむごたらしい遺体が発見された。

 ほどなくして、この殺人事件は王である成宗の知るところとなる。都承旨申浚が自宅に届けられた匿名の手紙を、王に持っていったのである。手紙には、居平君(朝鮮王朝第2代王定宗の孫)の妻が嫉妬に狂って女を殺した、加外という者に聞いてみればすべて明らかになる、とあった。

 調べてみると、殺された少女は、加外のはとこにあたる高邑之という丘史(王が王族や功臣に下賜した公奴婢)であり、昌原君宅の家奴婢として働いていたという。居平君は無関係であった。誰が匿名の手紙を送ったのかは自明であろう。

事件発覚

ムチ打ちの様子

 昌原君李晟は、朝鮮王朝第7代王世祖と側室の間に生まれた王子で、その放蕩と暴虐は朝廷ばかりでなく有名であったという。加外の証言もあり、殺人の現場からそう遠くないところに住んでいた昌原君宅ももちろん捜査対象となった。だが、昌原君は自身の地位を盾に家宅捜査を拒否、義禁府から報告を受けた成宗は、少女を殺した下手人を必ず逮捕せよと、身分の貴賎に係わらず捜査を徹底するよう命じた。とうとう強制的に義禁府に送致、尋問される。だが彼は、高邑之という女を見たことも、聞いたこともないとしらを切り通す。ところが捜査が進むにつれ、拷問を受けた昌原君宅の奴婢たちが口を割り始めた。

 「朝鮮王朝実録」成宗条88巻9年(1478)1月28日には次のようにある。

 「同副承旨李瓊仝來啓曰。昌原君奴元萬、石山、山伊承服。 其供辭曰、有洪玉亨者、以主家婢玉今爲妻、又私通古邑之。一日古邑之與玉今言曰。吾夢見玉亨、吾主聞之、怒曰。汝之夢見玉亨何意也。使我等殺之、遂懸古邑之翼廊簷下、以金刃殺之。云」

思悼世子の母所蔵の還刀

 (訳=同副承旨李瓊仝が来て言うことには、「昌原君の奴婢元萬、石山、山伊が承服した。その供述によると、洪玉亨という者が主家の奴婢玉今を妻にし、さらに古邑之と姦通しました。ある日、高邑之が玉今に『私の夢で玉亨を見た』と言うと、私の主人がこれを聞いて怒り、『お前の夢で玉亨を見たとはどういう意味だ』と叫びながら、我らに(高邑之を)殺すよう命じたので、ついに高邑之を翼廊の欄間に吊るし、切り殺しました」)

 高邑之を吊るし、拷問の末、環刀でなで切りにし、奴婢にとどめをさすように命じたというのだ。王子昌原君李晟は、ばかばかしい「プライド」と醜い嫉妬のため、少女を殺害したのである。だが、高邑之が本当に洪玉亨と通じていたのかどうかは謎である。洪玉亨が彼女に言い寄っていたことは確かなようだが、それを高邑之が嬉しく思っていたのかどうかは定かではなく、「夢に見た」うんぬんも洪玉亨の妻・玉今がわざわざ昌原君に告げ口しているのである。もし、洪玉亨に心を寄せていたとしても殺されるいわれはない。まだ、18歳にもなっていなかったという。

権力の前に法は無力

 成宗はここにいたって困惑する。まさか、複数の奴婢たちが、昌原君が犯人だと言い募るなど思いもよらなかったのだ。高邑之を切ったという環刀も見つからず、彼女を吊るしたという縄も出てこないことから、証拠は不十分に思われた。だが、証言者たちの言質は別々に審問したにも関わらず、細部まで一致している。「悪くすれば」、先王の子を死刑にしなければならない事態である。法にのっとり彼を死刑にすれば、この事件は政治的に利用される可能性がある。そうなれば、王権を揺るがしかねない「ゆゆしき」事態になる。結局、「王子に官庁が罰を与えた前例がない。朕が直接裁定しよう」という成宗の一言で、すべてがうやむやになってしまう。成宗はこうも言っている。

 「李晟が高邑之を殺害した罪は重い。だが、傳教を携えた役人の捜索を拒否したことが最も罪深い。物証もなく罰を与えるに忍びない」(「朝鮮王朝実録」成宗条90巻9年(1478)3月11日)

 驚いたことに、殺人よりも王命に従わなかったことが一番の罪だと言うのだ。

 こうして、殺人者昌原君李晟は遠流に処されただけで、これといった罰は受けていない。王子に命じられ最後に高邑之を手にかけた奴婢たちは、それぞれ100叩きの刑、足を切られる刑など重い罰を受けた。真の下手人には正しく法は適用されず、奴婢にだけ適用されたのである。むごたらしく殺された高邑之は、永遠に浮かばれない。(朴`愛・朝鮮古典文学、伝統文化研究者)

[朝鮮新報 2010.5.14]