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〈エッセイ〉 イギョラ朝高(チョーゴー)!

 高校野球に甲子園があるように、高校ラグビーに花園ラグビー場がある。

 今年1月5日、寒い日に初めて花園を訪れたのは、テレビで観た準々決勝の朝鮮高校の熱い応援風景に刺激されたからだ。

 前日の予報通り寒波が襲来して昼になっても気温は上がらない。試合開始は午後2時だから、そんなら早く来なくとも良かったのだけど、ぐずぐすしていると寒さに負けて、結局テレビ観戦しそうだから、朝9時過ぎに家を出た。

 乗り継いだ電車では、対戦相手のチームの選手たちと一緒になった。高校野球では選手は専用バスを使用するらしい。ラグビーのこの庶民的な風景も気に入った。

 駅でぞろぞろ降りる相手チームのラガーはとても大柄で、荷物を持って監督に随って行く姿は温順そうだった。何よりも助かったのは、この子らに随いて行けば初めてのラグビー場行きも迷うことはなさそうということだ。

 冷たい生駒風の吹くスタンドで短いコートを着て来たことを後悔しているうちに、いよいよ試合開始。一緒に歩いた相手校のラガーの体格に圧倒された眼には、朝高のラガーは小柄に見えた。そして、一挙に熱い応援が始まった。期待通りだ。私は高校生の間に割り込んだ形で観戦した。「イギョラ朝高!」とリーダーに合わせて一斉に叫ぶ。私も叫ぶ。「イギョラ朝高!」「ワアー」と大歓声が上がって朝高が先取点をとるや、一斉に起ち上がって左右と握手。肩を叩き合うのもいる。抱き合うのもいる。「イギョラ朝高!」「イギョラ朝高!」

 「キャアー」という悲鳴が起こった。逆転されたのだ。こちらを向いて走るそのラガーは黒人系だった。途端に「アーッ、ガイジンや」「そんなンあり?」と日本語が私の頭上を飛びこえて往復する。スコアボードに「松島」と名前が出ると「アーッ日本名使こてはるゥ」と女子高生が叫ぶ。スタンドに飛び交う日本語には想像もしない驚きがあった。日本名とサラリと出る言葉にも衝撃みたいなものが走った。

 つねに意識する日本名。彼も彼女も日本の生活者なのだ。

 「ワァー」「キャァー」「イギョラ朝高!」「イギョラ朝高!」スタンドはいつの間にか超満員。声を涸らしての大声援。私も一緒に叫んでお蔭で寒さも忘れてしまった。

 試合は負けた。でも高校ラグビー大会加入以来、初の3位だ。選手たちがスタンドの前に並ぶと、大きな拍手で迎えた。

 帰り道は朝鮮高校生の大波の中だった。「良え試合やったなァ」「一ぺんに決勝へ行くわけないワ」「だんだん強ゥなったらええンや」肩肘の張らない大人びた会話の中を駅にたどりついた。

 日本語ではつらつと会話し合う彼ら、彼女らに、私も元気をもらった。

 それにしても朝高生がいとも日常的に使い馴れた口ぶりで「日本名」といったが、日本名とは何だろう。日本人とは何だろう。

 私の生命はある時点で日本列島に、人として与えられた。これは偶然の産物である。若い時は生まれた家庭をも含めて呪ったこともあるが、77歳のいまとなっては、これを運命と受容することができる。

 朝高生もまた、個人の意志と関わりなくこの日本列島に人として生命を与えられた。ここまでは私もこれを運命というほかはない。

 しかし、現在、起こっている朝鮮高の除外問題は、人為的、意図的に一定の集団に負の運命を追わせようとするもので非人間的な行為である。

あるいは運命は神のみがもたらすとすれば、神の手を奪う瀆神的行為といえるのではなかろうか。(淺川肇、歌人)(詩人=リーフレット「朝鮮学校無償化除外反対」より)

[朝鮮新報 2010.5.14]