〈生涯現役〉 4世代54人で米寿を祝った−尹念昊さん |
祖国の懐こそ「幸せの泉」
3月半ばの米寿のお祝い。ひ孫まで含めた4世代54人の一族が一堂に会してホテルの宴会場でにぎやかに行われた。それから一カ月も経たない4月4日の日曜日、今度は孫やひ孫のウリハッキョ入学を祝う宴席が焼肉店に設けられ、約40人の親せきが集まった。 この場の主役ももちろん孫たちから「一族のドン」と慕われている尹念昊さんである。今年、初級部に2人、高級部と朝鮮大学校に1人ずつ入学する孫たちに囲まれ、笑顔を絶やさない。その1人、翌日、茨城朝鮮初中高級学校高級部への入学を控えている盧成日くんにとっても「ハルモニは親友のような存在」。幼い頃から近所に住むハルモニの家に泊まりにいくのが楽しみで、「寝床で昔話をしてもらったり、学校帰りに寄ると、近所の食堂に大盛りのどんぶりを3杯出前するように頼んでくれた」と。孫たちのハートと胃袋をしっかりとりこにしてきた尹さんの存在感。 地域を代表する企業の会長として、また、夫亡き後一族を束ねる家長としての風格が滲みでる。しかし、その人生もまた、波乱に満ちたものだった。植民地時代、慶尚南道蔚山の山村に生まれ、貧しさと男尊女卑の古い因習のなか教育も受けられなかったが、笑顔を絶やすことなく、懸命に働き、4男2女の子どもを育て、生活を支えた。
夫は夕張炭鉱へ
そもそも1941年、18歳のとき、同じ蔚山の隣村出身で釜山で働いていた26歳の盧基完さんとの結婚が決まったのも青天の霹靂だった。事前に顔もみることなく結婚が決まり、花かごに乗って、輿入れしたが、婚家の両親は早く亡くなり、新婚用のふとんもないありさまだったという。しかも、その頼りの夫が3日目には徴用で渡日。 「夫とは何がなんだかわからないまま別れ別れ。しかも、シヌイ(義妹)まで託されて、夫不在の婚家を何とか切り盛りした」
その夫は騙されて夕張炭鉱へ。後に聞かされたのは、身も凍るような体験と逃亡劇だった。「タコ部屋で枕木を枕にして寝させられ、朝方、棒頭に枕木を思いっきり蹴飛ばされる毎日だった。その衝撃で脊髄まで傷つけられ、半身不随になる同胞もいた。このままでは殺されると思い、同胞ら3人とある夜、ボットン便所から逃げ出した。しかし、憲兵隊に追跡され、1人は銃殺された」。命からがら逃げた夫は、山奥の親切な人に匿われて生還することができた。42年、生き延びた夫が迎えに来て渡日。親せきを頼って北茨城市大津町に住んですでに70年近くになる。
敗戦直後の食糧難のときは大変だった。農家に米を買いに行っても売ってはくれず、庭先に湯気を出したふかし芋がいっぱいあってもたった一個でさえ譲ってくれなかったと振り返る。しかし、尹さんは決して挫けなかった。夫とともに朝聯の支部や女性同盟の支部の活動に精を出す一方、戦後の経済難を乗り切るためにどぶろく、質屋、古物商…と骨身を削って働いた。その多忙さを縫って、女性同盟の分会長、県北支部財政部長などを務め、70年からは28年間、女性同盟同支部副委員長(非専従)として活動し、現在は顧問。 「一番の思い出は、蒸気機関車で片道4時間かけて日比谷公園で開かれた集会やデモに頻繁に通ったことだ。『米軍撤退』『外国人学校法案反対』『祖国との自由往来要求』…暑い日、寒い日、雨が降ろうが嵐が吹こうが一度も休んだことがない」。そのかたわら、「朝鮮画報」などの部数拡大や朝鮮学校の権利を守るために見ず知らずの家や団地に飛び込んで署名を1人で何百人も集めたこともあった。金剛山歌劇団公演の広告をもらうために、近所の商店街の電気屋さん、肉屋さん、靴屋さんなどの店一軒一軒、を訪ね歩いた。「1万円、2万円が重なって、20万、30万円になって…。みんなあの家の人は額に汗して働いているからと嫌な顔をせず協力してくれた。本当にありがたいこと」。と常に感謝の気持ちを持つ尹さん。 車イス生活でも 働き詰めの歳月は尹さんの健康を少しずつ蝕み、今では車イス生活に。しかし、ひまわりのような明るい笑顔にかげりはない。「裸一貫で渡日し、今では、孫ひ孫だけでも35人に増えた。この幸せがあるのは、祖国と組織のおかげ。祖国とは、『清らかな水の流れ』のようなもの。この『幸せの泉』こそが、朝鮮人の生きる力。子々孫々、その泉を絶やしてはならない」と穏やかに話す。「亡国の民は葬家の犬にも劣る」という辛苦の体験から発せられた魂を揺さぶる言葉。胸が詰まった。(朴日粉記者) [朝鮮新報 2010.5.10] |