「弁護士布施辰治」を読む 「生きべくんば民衆とともに、死すべくんば民衆のために」 |
「国家の虚像に騙されるな」
天皇制支配下の戦前・戦中、そして敗戦後の混乱・激動する時代を、「刑事弁護士としての力量・技倆」を武器≠ノ、「生きべくんば民衆とともに、死すべくんば民衆のために」(墓碑銘)の道を貫きとおした布施辰治。東北農村の出自を忘れず、法曹界に入っても司法官への栄達を断って弁護士となり、トルストイの非戦・平和論に心酔、治安維持法で収監中の獄中では「レ・ミゼラブル」を聖書≠フように読み、終始、社会的弱者の立場に立ち、死刑廃止を唱え、さらに日本の植民地支配下にあった朝鮮・台湾の苦悩する民衆の解放運動に力を注いだ布施辰治。1953年、73歳で世を去るまでのその生涯は、まさに人権擁護の先達、戦闘的民主主義者、社会変革のための一兵士という言葉にふさわしいと言わねばならない。 本書の著者は、布施辰治の長女・乃文子の子息であり、幼少から18歳で死別するまで祖父に愛され親しく日常に接した方である。長じて、「法律時報」の編集長を経て、日本評論社社長・会長を歴任したジャーナリスト・法律研究者である。情理両面から布施辰治の果たした仕事を追跡するにこれほどふさわしい人はなく、見事なヒューマン・ドキュメントとして心打たれざるをえない。韓国では、日本人シンドラー≠ニして、2004年に、「建国勲章」を布施辰治に授与したという。これまで唯一人の日本人である。日本国家は、いったい誰に勲章≠贈っているのだろうか。
布施辰治は、90人以上の死刑囚を救えず見送った痛苦に立ち、「すべての人間は逮捕された瞬間に社会的弱者になる」と認識しつつ、数多くの刑事事件で被告の弁護にあたるとともに、先駆的な陪審制を主張、普通選挙運動、廃娼運動にもかかわったが、なによりも特記すべきは、植民地・朝鮮人の弁護である。3.1万歳事件に先駆けた1919年の「2.8独立宣言事件」をはじめとして、それは数知れず、戦後にまでおよぶ。
朝鮮民族の独立運動に共感した布施辰治は、関東大震災における朝鮮人虐殺に憤り、日本の責任を問いつづけ、朴烈と金子文子のいわゆる大逆事件≠ナも法廷に立ち、自死した金子文子の遺骨を引き取り、朝鮮の墓地への埋葬に努力したのである。しかも、朴烈の意見を聞きながら1945年9月、「朝鮮建国憲法草案」まで起草したというのだから驚く。「越権として朝鮮民族の怒りを買うであろうが布施故に許されることなのだろう」と著者は書いている。 天皇制を批判しながら「打倒されることなく、静かに消滅する」ことを思い描いた布施辰治の「最後の大舞台」は1949年夏、下山事件、松川事件などとともに起こった三鷹事件である。弁護団長だった布施辰治は、4年後の上告審の途中で病死するが、被告竹内景助の無罪を一貫して信じ、たたかいつづけたその姿勢には敬服のほかない。仲間を思い、死刑の宣告に揺れ動く竹内景助と布施辰治との主要な往復書簡が収められていて、お互いがどのような人間的信頼に結ばれて心を開いたかがわかり、感動的である。そして、自白などはなんの「証拠」にもならないとする布施辰治の論拠もわかる。竹内景助が無実を叫びつつ獄死(1967年)したことは知られている。著者は、いまなお日本は米国の属国であり、三鷹事件は、当時の米国占領軍の陰謀ではないかとの暗示もしている。 いまなお、国家権力による虐殺 ともいうべき死刑制度を、国民感情≠ネるものを引きあいに存続させている現状を、地下の布施辰治はなんと思うだろうか。 65年前、アジア諸国への侵略戦争にひた走りに走った国民感情≠ネるものは、敗戦とともに一夜にしてあっという間にけし飛んでしまったではないか。国家権力がふり撒く虚像≠ノひきまわされてはならない。本書に描かれた布施辰治の実像が、そのことを教えてくれる。布施辰治の不滅の声が聞こえる。「審くものよ! 汝もまた裁かれるであらう」。(編集者・影書房 松本昌次) [朝鮮新報 2010.4.26] |