「法然と秦氏」を出版して 「別所」で醸成された専修念仏 |
秦氏のアイデンティティ共有
法然が生涯、身の置き場所とした「別所」とは、どういう空間であったのか。 「別所」の学術的な定義は確立していないが、私はもともと租税の基本となった本所としての農耕生産地域に対する非農耕生産地域、つまり農耕以外の鍛冶や建設土木、木工、製陶、織物、工芸、武具などの生産を受け持った地域や、猿楽や舞楽、傀儡など神仏に奉仕する宗教、芸能などの文化を担った人々の生活地域を別所と呼んだのではないかと考えている。それらの職能はもともと主に渡来民が担い世襲化されたが、律令体制の崩壊とともに、本来の役割を失い、多くの職能の民が経済的に没落せざるをえなくなった。大寺院や神社の周辺に形成された別所がそうした人々の受け皿となったのである。それらの別所にシャーマンや聖、沙弥、禅師と呼ばれた私的な民間宗教者が集まり、平安中期の頃から別所は次第に肥大化していった。
民間宗教者の活動
それらの民間宗教者の活動は集団性、回国性、講の組織化を特徴とした。彼らは集団で全国を遊行し、おのおのの村落で神仏を取り次ぐ布教活動を行い、神を祀る祠や仏を祀る草庵を営み、信仰を定着させる講の組織化の役割を担った。同時に社寺の建立や修復、仏像の造立などの勧進活動をも担った。また国家仏教が担わなかった死者の葬送や埋葬、鎮魂とともに、施薬や病人看護、湯治のための湯屋などの布施行も主要な宗教的営為とした。別所にはそれらの宗教的営為のために、阿弥陀仏を本尊とする往生院や、薬師如来を本尊とする東光寺と呼ばれる寺院や墓域が形成された。このような別所の形態が鎌倉新仏教の原点となり、今日の「在家仏教」につながったのである。 法然はそのような別所に生涯身を置いた。法然の生きた時代、同族のアイデンティティを共有した秦氏の同胞が、一部の支配層を除いて身分的に差別されたうえ、経済的没落によって二重の差別を受けるようになった時代であった。別所に集う同族の聖や禅師、沙弥らの苦悩や悲哀を目の当たりにし、同悲同苦の視線を向けざるをえなかった。 女性平等の思想 別所で縁を結んだ多くの民衆の宗教的関心は、貴族階級の審美主義的な浄土教への関心に対し、もっぱら堕地獄の呪縛からの解放と極楽への往生にあった。堕地獄の恐怖は、自覚、無自覚にかかわらず、破戒・造悪を繰り返さざるをえなかった当時の民衆の間に、根強く働いていた宗教的意識であった。聖集団の役割は、そのような民衆の堕地獄の呪縛からの解放と極楽往生を指し示すことにあった。また女性には「五障三従」という仏になれない五つの障りがあり、幼くしては親に従い、嫁しては夫に、老いては子に従わねばならないといわれ、女性は男性に変身しなければ仏になることができないと考えられた。 法然の視線は、そのような造悪・破戒をせざるをえなかった悪人や、差別された女性の往生を通してすべての民衆の救済に向けられた。法然は自らを「我はこれ烏帽子もきざる男也」、あるいは「辺土の土民なり」と述べているが、自分を決して選ばれた階級の人間とは考えず、さまざまな差別を受ける民を自分と一体のものと考えたのである。 法然にとって「悪人往生」「女人往生」はどうしても避けて通ることのできなかった課題であった。だからこそ、法然が求めた仏教はどうしても凡夫往生、平等往生でなければならなかったのである。それはまた非業の死を遂げた父の、また生き別れた母の極楽往生への願いであり、「三学非器」「十悪の法然房」「愚痴の法然房」と煩悶する自らの救済でもあった。「無量寿経」や「観無量寿経」に、阿弥陀仏が「悪人往生」「女人往生」を約束したからこそ、阿弥陀仏が本願として示したとおり、法然は専修念仏を唯一の行として選択したのである。(山田繁夫、宗教ジャーナリスト) [朝鮮新報 2010.4.23] |