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〈高句麗の豆知識-A-〉 東アジア最強の国家

全身を鎧や胄で武装した高句麗の鎧馬武士(朝大・朝鮮歴史博物館)

 高句麗は中国王朝との絶え間ない戦争のなかにあった。

 まず、高句麗と中国との最初の戦争は、漢との戦争。これらは紀元前2世紀から紀元前1世紀の間の旧古朝鮮領土の回復の戦いであった。

 漢が滅び魏が建ち、魏が滅び燕が建ち、その間にも北方民族の公孫氏や鮮卑族との戦争などがある。

 魏との戦争は242年から259年の間にあった。

 このときも攻めたり攻められたりという状態で、高句麗の王が鉄騎5千を引き連れて戦った。

 高句麗の軍隊は馬に鎧を被せてある。「馬胄」といってちょうど目と鼻のところをくり抜いた鉄の面を馬に被せる。これは日本でも発掘されている。それだけではなく、馬の全身に鉄の鱗のようなものを被せた。平壌の博物館に実物大の模型が展示されているが、朝鮮大学校にも贈られてきた。

 燕との戦争は293年から406年の間にあった。

 これらの戦争を通じて高句麗はかつての古朝鮮の領土を取り戻す。それを誇るかのように建てられたのがあの有名な広開土王陵碑で、414年のことだ。

 高さ6.34メートルの雄大なこの石碑は、東アジア最強国家の宣言でもある。

 石碑に刻まれた1802文字の漢文には、高句麗は天帝ヘモスの子−朱蒙によって建国されたこと、高句麗は百済と新羅に朝貢をさせ、倭をけちらしたこと、そして碑麗(契丹の一部)、息慎(靺鞨)、東夫余を従えて大国家になったことを宣言している。天孫国家の覇権の謳歌でもある。

 この高らかな宣言から174年後、中国に出現した統一国家隋との間に激しい覇権争いが起きた。

 隋との大戦争の本論に入る前に、高句麗の文化力についてスケッチしてみることにする。

 高句麗文化の独自性を示す古墳壁画が有名だ。奈良の高松塚古墳、キトラ古墳にその文化が伝わっている。キトラの星座が、4世紀の平壌の空であったことが明らかになっている。

 高句麗式の寺院が建立され、有名な新羅の皇竜寺や大和の法隆寺の建築に技術者を送ってきた。設計には中国とはちがう独自のものさしをつかっている。高句麗尺・高麗尺という。日本では百済尺と呼ばれ、後に鯨尺と呼ばれた。

 高句麗の律令制は373年に始まる。官史養成のための太学(大学)は、その前年に建てられている。

 戦争の勝敗を左右する要因は、軍事力だけではない。その国の文化力、人々の高い意識や意志が大きな作用をする。(金宗鎮・在日本朝鮮社会科学者協会東海支部会長)

[朝鮮新報 2010.4.23]