〈渡来文化 その美と造形 13〉 壁画を描いた画家は? |
高松塚古墳壁面には、男子群像、女子群像などの人物図が描かれていた。一般に「飛鳥美人」と称される極彩色の人物図は、その鮮やかな色彩や高句麗風の服装などで大いに人々の注目を集めた。 では、これらの壁画は誰が描いたのか。 壁画は、複数の絵師がそれぞれ分担した絵の粉本(手本)をもとに描き、責任者が絵全体の統一的指揮を行ったと考えられる。 記録上に見える日本最初の画家として、「日本書紀」雄略7年(463年)条に、画部因斯羅我の名前が見える。百済出身であった。 その後、推古12年(604年)、「初めて黄文画師、山背画師を定む」(「日本書紀」)とあり、また、「聖徳太子伝暦」ではこの他に、簀秦画師、河内画師、楢画師の制度を定めたと伝える。つまり専門的な画家が日本史に登場したのである。 黄文氏の祖先は「高麗国人久斯祁王」(「新撰姓氏録」)とあって、高句麗の出身である。山背画師・河内画師は百済、簀秦画師・楢画師は新羅出身である。 推古18年(610年)、高句麗の僧・曇徴が彩色や紙・墨の製法を持って日本にやってきている。 推古30年(622年)、聖徳太子の死を悼んだ推古天皇が「天寿国繍帳」(残欠が現存する)を作らせたが、その下絵の描き手として、椋部秦久麻(新羅)を責任者として、東漢末賢(百済)、高麗加西溢(高句麗)、漢奴加己利(百済)らの名が、その由来とともに刺繍されている。この刺繍にみえる女人像は高松塚の女人像と同じ表現である。 天武6年(678年)倭画師音梼(百済)に対する授位・授封の記録が見える。 以上のように、日本ではじめて「絵画」を専門とする画家は朝鮮からの渡来人であり、また、天武朝にいたるまでの間に、記録に残る画師は100%朝鮮からの渡来者またはその子孫であった。さらに、大宝元年(701年)、絵画彩色を管轄する中央官庁である「画工司」が設置されたが、8世紀末までの約百数十年間に文献に名を残す画家152人中、80人は朝鮮からの渡来人であった。 こうしてみると、「飛鳥美人」などの高松塚やキトラ古墳の壁画(7世紀末〜8世紀初)を描いた画家は、朝鮮からの移住者やその子孫である、と見て誤りはないだろう。(以上朴鐘鳴編著「奈良のなかの朝鮮」より) 千数百年間、その美を保ってきた「飛鳥美人」は、「発見」30年余を経てその色艶を失い、本来の居場所ではないガラスケースの中で展示されるという。何を思うだろう。(権仁燮 大阪大学非常勤講師) [朝鮮新報 2010.4.19] |