〈遺骨は叫ぶ-34-〉 福島・常磐炭鉱 |
警備厳しく長時間労働 いつも空腹、巡査あがりが暴力 193人死亡
福島県浜通り地方南部に、県全域の9%を占める広域都市・いわき市がある。この地域で安政年間に石炭が発見されたが、「その後、湯長谷藩・平藩と結んだ商人らによって掘り出され、タールの原料や黒船の燃料として江戸や神奈川へ送られた」(「福島県の歴史散歩」)。石炭の需要は次第に伸びたが、「西南戦争のため京浜地方に九州炭の移入が途絶し、常磐炭の重要性が高まってきた」(「福島県民百科」)ところに中央資本が進出し、1883年に常磐炭鉱社を作り、10年後には常磐炭鉱株式会社に発展し、敗戦が近づいた1944年に入山採炭も合併した。長く常磐炭田の勢力を二分してきたのが一緒になり、アジア太平洋戦争下では、石炭報国の名の下に増産を続けた。 常磐炭鉱と入山採炭への朝鮮人強制連行は、国家総動員法を背景とする「朝鮮人労務者内地移入ニ関スル件」の通牒に基づき、事業主が係員を現地に派遣して始まった。入山採炭の係員は、1939年に朝鮮に行き、「現在大韓民国となっている地域は全部歩いて」(「壁に語る」)朝鮮人を集めた。その結果、常磐炭鉱にはこの年の秋に497人、入山採炭には495人が第一陣として着山した。その後、朝鮮人連行者は年ごとに増加し、日本の敗戦までに常磐域炭鉱は7381人、入山炭鉱は6787人、計14168人になっている。
1939年の秋頃から「半島係刑事」が主要炭鉱に派遣されたが、常磐・入山の両炭鉱には、朝鮮の中学校を卒業した「半島通」が2人配置され、警備は厳しかった。世帯持ちは鉱夫長屋に、独身者は合宿寮に収容され、「常磐炭鉱の例を挙げると、一つの半島寮には200〜300人は入る。労務の管理人が一つの寮に4、5人いて、朝鮮人がどんなに具合が悪くても仕事を休ませてはいかん。寮の周りに塀を作って出入口を一カ所にして、詰所の助手のような者がいた。寮長は、満州や内地の巡査あがりが多かったが、いわば労務の親方で暴力を振るわなければ勤まらない。ステッキを持ってビシビシとやるから、いつも生傷のあるやつが寮にいないということはない」(「常磐炭田史」)という状態だった。
朝鮮人たちの仕事は坑内が多く、「先山の言うとおりに石炭トロに積めと言ったら積むしね。発破かけろと言ったらかけるしね。その発破の孔掘れと言ったら掘るしね。石炭積んだトロ押したり」(「ある朝鮮人炭鉱労働者の回想」)した。坑内労働は、一日3交替で、一番方は、朝6時に坑内に入り、夕方の3時頃にあがった。それから二番方が入り、10時頃に出てきて、三番方が入ると、翌朝の6時頃まで働いてあがった。仕事が終わって帰る時は空腹で、どの人もフラフラしていた。常磐炭鉱に連行された朝鮮人は、若い人が多く、大半が20代から40代だった。「だから一番食べ盛りの時なのに、食べ物が一番足りない。朝鮮にいる時でも、そんなにうまい物を食べていたわけではないけども、ジャガイモなり、麦ご飯なり、とにかく食べるのは腹一杯食べたんだからね。常磐炭鉱の場合は、イモご飯で、米はほとんど入ってないんだが、量が少しなんだ。おかずも十分にないから、お腹空くのでみんな泣いていた」(同)という。 また、作業服もなかなか配給されなかったが、たまに配られるのは薄いシャツだった。引っかけるとすぐ破けるので、いつもボロボロの破れ姿で働いた。しかも南京虫が多く、1回かまれると一晩中かゆいので、夜も眠れなかった。 警備が厳しいうえに、長時間労働、しかも食料が足りないので、いつも空腹状態のところを、南京虫に襲われて眠れないため朝鮮人たちは、日毎に衰弱していった。ところが常磐炭鉱は、1944年から軍管理になったので、軍隊や憲兵などが配置されたため、朝鮮人の監視はさらに厳しくなった。「日本人もよく青竹で殴られたが、朝鮮人の場合は、さらに大変だったという。軍隊、憲兵らは、会社の上役連中と組んで、労働者に配給する食料をピンハネして贅沢な生活をしていた。そのため、労働者の食料は半減し、豆かすとイモばかりで、ほとんど栄養失調となった。しかし朝鮮人労働者は、これさえありつけず、よく葛の根を掘って食べていた。朝の食事だけでは腹にたまらず、少しばかりの昼の弁当まで食べてしまって、昼飯は食べるものがなくなり、空腹を抱えたまま12時間の坑内労働に従事した」(「朝鮮人強制連行の記録」)のである。 このため常磐炭田では、多くの犠牲者が出たと伝わっているが、現在は2種類の資料がある。「福島県調査」と「朝鮮総聯調査」だが、県調査では116人、総聯の調査では193人の死亡となっているが、どの数字が正しいのかはわからない。 2009年の晩秋に、常磐炭田に筆者が行った時に参拝した性源寺の「常磐炭田 朝鮮人労務犠牲者之碑」の裏には、「常磐炭鉱 沈基福外百貮拾八名」と刻まれていた。また妙覚寺は、常磐炭鉱の火葬場跡に建つ寺で、火葬場跡に多くのお骨があるのを埋葬し、煙突はそのまま供養塔として残していた。その他の寺院にも、遺骨や朝鮮人過去帳が残されているというが、常磐炭田の朝鮮人連行者の実態は、いまだに明らかにされないままになっている。(作家、野添憲治) [朝鮮新報 2010.4.19] |