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「法然と秦氏」を出版して 一族の伝統社会で過ごす

凡夫往生・平等往生を説く

生涯を別所で

新羅明神像(園城地蔵)

 法然の思想は、一切の衆生が等しく往生できる凡夫往生・平等往生にその特徴がある。それを可能にしたのは「南無阿弥陀仏」と口に称えるだけの易行の専修念仏を選び取ったことにある。釈尊の仏教は本来、人間を貴賤や貧富、男女を差別するものではなかった。インド社会の階級制度を否定し、平等主義を貫いたものであった。法然は、この釈尊本来の仏教を、口称念仏によって取り戻したのである。

 法然が、この口称念仏の拠り所としたのは主に「無量寿経」「阿弥陀経」「観無量寿経」の三経典である。「無量寿経」は、阿弥陀仏が修行時代に、仏となるために四十八の願を立てたことが説かれている。それらの願のうち、第十八番目の願に「すべての人々が心から信じ、仏の国に生まれたいと念仏したのに、仏の国に生まれることができないなら、私は決して悟りを得ることはない」と誓ったとある。

 また「観無量寿経」は、素質に応じ、浄土を思い浮かべる十六種類の往生の方法を示した経典である。この経典に最も素質の劣る者の方法として口称念仏が示されている。もっとも素質の劣る者とは「五逆罪」つまり、父殺し、母殺し、僧殺し、仏身を傷つけること、教団の和合を破壊すること、この五つの罪をつくる悪人である。この五逆罪の者は、その悪業ゆえに無間地獄に堕ちるとされたが、命終に臨んで善知識(仏法に導く人)に遭い、心から往生を願って仏名を称えれば、「八十億劫の生死の罪を除く」と説かれている。つまり素質の最も劣る者でも、仏名を称えれば往生できると説かれているのである。

 阿弥陀仏は修業時代、すべての人々を救い取ることができないなら、仏にはならないと誓って、仏になっている。ならば阿弥陀仏の救いの対象は五逆罪の悪人も例外ではない。しかるに仏教では「身・口・意」の三業の働きによって善もつくれば悪もつくるとされる。悪業も実際の行動のみならず、口で叫ぶことも、心に思い浮かべることも罪とされる。この「身・口・意」の三業に照らせば、五逆罪をつくらない人など皆無に等しい。言い換えれば、日々煩悩に苛まれながら、罪を重ね続けるすべての凡夫こそが阿弥陀仏の救いの対象であり、口称念仏こそがその救いの方法であると。そう法然は解釈し、凡夫往生・平等往生の思想を確立したのである。

幼児期の体験

誕生時菩薩練供養

新羅系の神を祀る香春神社

 法然の伝記によれば、自らを「愚痴の法然坊」「十悪の法然坊」と煩悶し、僧侶の基本とされる「戒・定・恵」の三学を学ぶ器にもないと、苦悩したことが描かれている。極めてストイックな性格であったことがうかがわれる。人間の人格や思想形成は、その出自や生活環境、所属集団の属性、人間関係などの要因によって影響を受けるのはいうまでもない。ことに幼児期の体験は強い影響を及ぼすものである。法然のストイックな性格はそれらのさまざまな要因が重なり合って育まれたものと思われる。

 法然は、秦氏という渡来氏族の文化や習慣などが息づく氏族社会に生まれ成長した。そしてその思想形成のうえで、何より重くのしかかったのが少年時代の体験であった。父親が夜討ちにあって殺害され、母親とも生き別れとなった。この数奇な体験がトラウマになったことは想像にかたくない。

 そしてその後の生活空間は、母の弟の観覚得業に預けられた那岐山の菩提寺といい、その後に登った比叡山黒谷といい、専修念仏を確信して山を降り、移り住んだ東山大谷といい、その生涯のほとんどを、大寺院から隠遁した僧侶や私的に僧侶を名乗った聖や沙弥らが集まった「別所」と呼ばれた空間で過ごした。つまり法然は生涯、別所で念仏聖として生き、別所に身を寄せた人々とともに生活したのである。このことが法然の凡夫往生・平等往生の思想形成に大きな影響を及ぼすことになったのである。(山田繁夫、宗教ジャーナリスト)

[朝鮮新報 2010.4.16]