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〈歴史×状況×言葉 朝鮮植民地支配100年と日本文学〉 第4回 高浜虚子

憐れまれる存在ではない

「ソクラテスの弁明 クリトン」(プラトン著、岩波文庫)

 「韓国併合条約」の翌1911年、高浜虚子(俳人、小説家 1874〜1959)は二度にわたり朝鮮に遊んだ見聞をもとに長編小説「朝鮮」(「大阪毎日新聞」「東京日日新聞」の両紙に連載)を書いた。俳人として、また写生文の創始者と言われ小説も残した虚子だが、「朝鮮」では、さまざまな朝鮮人と日本人が登場し入り混じるなか、当時の植民地朝鮮の風俗が紀行文風に綴られていく。作品の評価はさまざまだが、ほとんど内面の感慨を交えることのない写生文の中にもおのずと朝鮮に対する蔑視観と優越意識が随所に現れている。主人公「余」には「全く矛盾した二個の考」、すなわち征服され衰亡した朝鮮に対する憐憫と、「流石に日本人は偉い」という誇りとが、絶えず交互につきまとう。

 さて、「余」と、朝鮮で暗躍する政治浪人の石橋、抗日運動のため拷問で歯をすっかり抜き取られ今は日本からの大陸浪人とともに働く洪元善。三人はある夜、妓生の素淡の家を訪ねる。伊藤博文を暗殺した安重根の写真をアルバムに収めている素淡は、「余」ら二人の日本人の来訪に「余程の苦痛」の表情を見せる。そして突然門内から「衣冠束帯の朝鮮人」四、五人が現われ立ち去ったことに「余」は驚かされ、「日韓併合の前後に頻出した兇徒には必ず妓生が色彩を添えてゐるといふ事」を思い起こす。さしずめ日本人政治ゴロと、不承不承に親日派たらざるをえない朝鮮人と、傍観的・「良心的」日本人、と言い換えてしまえば乱暴だが、その三人が連れ立って朝鮮独立の志士のアジト(植民地期、遊郭と抗日運動は結びつきが深かったという)にはからずも足を踏み入れる、そんなシーンなのだ。そして「余」の疑問と後悔は消えず、こう述懐する。

「寧ろ人の花園に足を踏入れたやうな心持で無用な行為であった事を後悔した。/彼等朝鮮人は彼等朝鮮人として各々愉快な自己の天地を作らしめよ」

植民地期、平壌牡丹台にあった「お牧の茶屋」。虚子も訪れこの料亭のことを俳句に詠んだ。

 このくだりをあらためて読み直しながら、筆者は朝鮮学校の「高校無償化」はずしが図られる現下の状況、とりわけある光景を思い浮かべた。かの橋下徹大阪府知事は「視察」の名のもと朝鮮高校に踏み込み、恫喝そのもののように「無償化」とは何の関係もない問題を学校側へ突きつけた。それこそ「人の花園に足を踏入れ」たような「無用な行為」ではないか。

 朝鮮学校が、朝鮮学校だからという理由で権利から除外されることがあってはならない。日本の高校生と「同じ」だから「無償化」適用せよ、なのではない。無論、理不尽な政治家とマスコミにさらされながら四苦八苦に対応しつつそのように訴えなければならない学校側の立場はある。だが、清算されず今日なおも再生産される植民地主義的な支配構造を拒絶するというところにこそ、日本学校と朝鮮学校の最たる「違い」がある。そしていかなる「違い」があれ、その自決権と教育権は、無条件保障されねばならない。私たちは虚子の言葉をこう言い換えて投げつけるべきだろう。「朝鮮学校は朝鮮学校として愉快な自己の天地を作らしめよ」と。

 虚子の朝鮮認識を過大評価するわけではない。「朝鮮」はむしろ問題点の多いテクストではある。しかし朝鮮人が日本文学の言葉を逆に奪い取り、反転させ、わが物に作りかえて投げ返すことも、すぐれて「読む」行為となりうるはずだ。虚子は「路傍の石に腰掛けて煙草をくわへてゐるソクラテスのやうな老人は、何故に他国人に征服されねばならぬか」と朝鮮人を憐れんだが、私たちは憐れまれる存在ではない。古代ギリシアの哲学者ソクラテスは、政治権力から迫害された自らを、馬にうるさくつきまとう「虻」に譬えた。朝鮮学校とは、歴史も人権も忘却したまま肥え太った日本社会という「馬」の周りで、たえずその目を覚まさせる「虻」たろうとする場所なのだ。(李英哲 朝鮮大学校外国語学部助教)

[朝鮮新報 2010.4.12]