「法然と秦氏」を出版して 独自の宗教文化を形成 |
先進技術と文化伝えた渡来民 秦氏のとして
私は、日本の平安時代末期に活躍した浄土宗の宗祖法然上人(以下、敬称略)が古代、朝鮮半島から渡来した秦氏の末裔であり、その出自と氏族のアイデンティティが、法然の人格形成や思想形成のうえで大きな影響をもたらしたと考え、これをテーマに昨年、「法然と秦氏」(学研パブリッシング刊)という著作を刊行することができた。 法然は、いうまでもなく浄土宗という宗派の宗祖である。法然は浄土宗にとどまらず、現在の日本に受け継がれている宗派仏教の歴史にもっとも深い影響をおよぼした宗教家であった。法然が提唱した専修念仏という新しい浄土教を受け継いだ宗派の宗教人口が日本仏教の中で最大であることもその理由の一つであるが、現在の日本仏教に「在家仏教」と呼ばれる独特の信仰形態をもたらしたことも、その理由に挙げることができる。 日本の仏教公伝は538年、百済の聖明王によってもたらされたとされるが、「公伝」とは国家に公式に伝えられたという意味である。仏教は、各地の部族を制圧して統一国家を形成したヤマト王権によって公式に受容されたが、それ以前から仏教は朝鮮半島から渡ってきた渡来民の「私宅仏教」として古くから伝えられてきたのである。
日本に大きな影響
古代、朝鮮半島から日本列島に渡ってきた渡来民は、日本の古代社会に産業革命ともいうべき大陸の先進技術や新しい文化をもたらした。ことに産業技術は、稲作を中心とする農耕や建築土木、鍛冶、織物、養蚕、木工、美術工芸、武具など全般におよび、生活に飛躍的な変化をもたらした。それらの技術と不可分の学問や宗教、思想などの文化も移入した。古代ヤマト王権は、それらを巧みに取り入れることによって統一国家を成立させることができたのである。 それらの技術や文化を担った職能の民は、古代律令体制の整備とともに、氏姓制度に組み込まれ、「百八十部」の「品部」で構成する「部民制」と呼ばれた職能制度に配され、ヤマト王権を政治的にも経済的にも支えた。それらの職能は世襲制とされたことから、その渡来人独特の技術や文化は、古代律令体制が形骸化する平安中期の頃まで、その部族社会によって立つことのできる彼らのアイデンティティとして継承されたのである。
ことに技術はそれを支える信仰とは不可分であり、渡来民の部族社会に独自の宗教文化を形成した。鍛冶神を祀る八幡信仰や農耕神を祀る稲荷信仰、山の恵みを守護する熊野信仰などの信仰は、彼らの部族社会を守護する自然信仰として形成されたが、それらの神々も律令制の神祇支配に組み込まれ、日本の神として古代の日本社会に定着するようになったのである。
秦氏は、4世紀後半から波状的に日本列島に定住するようになった先発の渡来氏族であったが、その後、渡来した「今来漢人」が中央に重用され、都市型の氏族として発展したのに対し、秦氏は地方型の氏族として西日本全域に根を張っていった。 平安時代中期の頃から、領地を私有化する荘園領主の勃興によって、公地公民を原則とする律令体制が形骸化しはじめ、部民制に組み込まれていた職能の民の生活基盤が脅かされるようになった。一部の支配層は藤原氏などの貴族に同化したり、彼らの技術を背景に地方で土豪化し武士団を形成したが、多くの職能の民が没落を余儀なくされた。彼らの技術や文化を支えた独自のアイデンティティも次第に喪失せざるをえなくなったのである。 (山田繁夫、宗教ジャーナリスト) ●山田繁夫(やまだしげお) 宗教ジャーナリスト。1948年京都生まれ。立命館大学卒。大阪の関西新聞記者を経て、1991年に京都の宗教専門紙中外日報社に入社。浄土宗担当記者のかたわら、梅原猛氏の連載「法然」を担当、連載「浄土宗名越派の消長」などを執筆。2009年退社、浄土評論社を設立。 [朝鮮新報 2010.4.9] |