〈続 朝鮮史を駆け抜けた女性たちN〉 「恨中祿」を著す−獻敬王后洪氏 |
50年にわたる記録 「恨中祿」は、朝鮮王朝第22代王−正祖(李=正祖の本名)の母であり、謀反の疑いありと断じられ21代王英祖によって米櫃に閉じ込められ餓死した世継ぎの王子思悼世子の妃ー獻敬王后洪氏(1735〜1815)が、宮中に10歳で輿入れしてからの50年間を回顧し記録した随筆である。約10年間を費やし、四度に渡り書かれた「恨中祿」は、その流麗な文体、真に迫る写実的な内容など宮中文学の白眉と言われている。また、「The Red Queen」(Margaret Drabble)という米国の小説の素材にもなっている。原本はいまだ発見されず、ハングルと漢文の筆写本がある。
夫を陥れた実家
「陛下(英祖)が徽寧殿にお座りになり、剣を手にその処分(思悼世子の殺害)をなさろうとするので、到底耐えきれるはずなどなく、この惨状をどう記せばよかったのでしょうか? …天地驚倒し心が崩れ落ち、胸は張り裂けんばかり…このような光景は古今東西見たこともなく…私もこの世にもう未練などなく、小刀を取り出し自刃しようとするも、女官に取り上げられ果たせず…内臓が千切れ目の前は真っ暗になり、 嘆き悲しんでみたところで一体何になるでしょうか?」 「恨中祿」の一節である。夫を殺害された悲しみが迫ってくる部分である。だが彼女は、夫思悼世子を追い落とすために手段を選ばなかった政治派閥老論と、それに属していた自身の父親と一族を庇うために「恨中祿」を書いたふしがある。 英祖が即位したときの功臣が老論であったため、英祖はその敵対する派閥小論とのバランスを考え派閥争いを抑えうまく政局を乗り切ろうとしていたが、派閥間の軋轢は激しさを増していった。だが思悼世子の政治理想は小論にあった。 農民の保護に尽力、国庫に納められる米を不正に得ようとする者たちを弾劾、一度は、成均館(学問所)の学生が王の下賜品である銀杯を盗んだとき食堂を閉鎖、学生の入出を禁じた、などと思悼世子の記録にはある。 また、死刑囚を最低三度は取り調べる三審制を導入したが、このような斬新な取り組みが老論の危機感をあおり、ついには彼らの陰謀に絡め取られ父王によって殺されてしまうのだ。恐ろしいことに、父王の年若い後妻と側室も、王位を狙う血を分けた妹王女も老論に加担していた。 彼らは何でもした。思悼世子は体が弱いという噂を流し、いたわるふりをしながら怪しい薬を与え続けた。薬の副作用か、本来は物静かだった世子の性格は激変、すぐに激高し奇行が多くなっていった。老論一派は、世子の筆跡をまね、偽りの手紙を書き、それを王に見せ怒りの矛先を思悼世子に向けさせ、偽りの王命で世子を真夜中に王の寝所に急がせ気がふれたと噂を流した。ついには東宮殿の奴婢を利用し、世子が謀反を企てていると父王に耳打ちさせた。
「恨」
「小朝(思悼世子)のなさることが常軌を逸し…すると(世子が狂人だという)異様な噂が過度に流され…本心ではないのに気がふれている時におっしゃることが、剣で(人を)殺したいなどと…(精神に)異常がないのにこんなことをなさるはずはなく…あなた(思悼世子)の数奇な運命のせいで寿命をまっとうされることなく例を見ない残酷なことを経験されるのはすでに決まっていたこと。神はどうあってもあのおぞましい病をお作りになり、(あなたの)体をあんな風に(死ぬように)なされたのだわ。神よ、神よ、…」) このように「恨中祿」には、夫が狂ったのだと書かれている。本当にそう思っていたのだろうか? もし本当にそうなら、老論一派はわざわざ彼を陥れる必要はなかったはずだ。真に狂人ならば、放っておけば王位継承者としては欠格となり廃されてしまうのが当時の習わしである。なぜ彼を追い詰めたのか、それは思悼世子が老論にとって政治的に危険な人物だったからに他ならない。夫の死後、獻敬王后洪氏は息子である正祖が三度も老論に、すなわち自分の実家の者に暗殺されそうになる事件を目撃しながらも、泣きながら、また断食さえして父の命乞いを息子−正祖にしている。一方正祖は、父−思悼世子の死と、自らへの暗殺未遂の責任を問い洪氏一族粛清に乗り出す。正祖が夭逝すると 洪氏は、「恨中祿」を10年もかけて書き上げ、父を擁護し、実家の名誉を取り戻そうとする。彼女にとっては夫を殺されたことや息子を殺されかけたことが「恨」なのではなく、後世に実家が悪く言われることこそが「恨」だったのである。 彼女は生涯妻でも母でもなく、ただひたすらに洪氏一族の一員として生きようとしたのである。悲しい「生」である。(朴c愛・朝鮮古典文学、伝統文化研究者) [朝鮮新報 2010.4.2] |