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〈高句麗の豆知識-@-〉 日本で知られていない高句麗

4世紀末の高句麗、百済、新羅の三国領域図

 近ごろ「高句麗」が話題になっている。朱蒙や淵蓋蘇文がテレビドラマで人々を魅了している一方、中国では「東北工程」とかいうプランで、高句麗は中国史の一部であると言い始めている。

 ところが、そもそも日本では今まで高句麗に対する良いイメージがなかった。小中高の社会科の教科書では、「倭が朝鮮南部で高句麗と戦った」とか「隋が高句麗を攻めたが失敗した」程度の断片的な記述しかない。

 それでは…と、日本の「歴史事典」で隋と高句麗の戦争を調べてみた。

 新潮社の「中国歴史文化事典」(1200ページ)では、驚いたことに隋の煬帝が高句麗へ遠征したという記述そのものがない。角川出版社の「日本史事典」(これは1300ページ)には、「隋、唐との戦争で疲弊して、高句麗は滅びた」と素気なく記述されている。

 山川出版社の「日本史広事典」には、「高句麗は隋、唐の干渉を招き、滅びる」と書いてあった。そこでまた煬帝の項目を引いてみると、「高句麗遠征に失敗」と一言だけ書いてある。教育社の「戦争事典」には、高句麗と隋の戦争そのものが載っていない。

 高句麗と隋の大戦争は、東アジアを揺るがせた歴史的なできごとであった。

 しかし、この大戦争は、日本ではまったく知られていない。その一方で、この時期に聖徳太子が隋の煬帝に「日出ずる国の天子」という文書を送った話は、広く知られている。

 春日井市のある中学校で、友人の社会科教師が朝鮮史研究会で学んだ「高句麗と隋の戦争」を授業で話したところ、生徒たちが「高句麗はすごい」との反応を示したという。その後、その中学生と東春朝鮮初中級学校中級部の生徒との間に交流が始まっている。「歴史を知る」ことの意味を教えてくれるエピソードだ。

 中国の史書が伝える高句麗は次の通り。

 −高句麗にはすばらしい弓あり、いわゆる貊弓なり(「三国史」東夷列伝)。
 −夷貊に侵され、郡を句麗の西北に移した(「三国史」東夷列伝)。
 −東夷の者はみな音楽と歌舞を好む(「後漢書」東夷列伝)。
 −天を祭り国中大会とし、名づけて東盟という(「魏志」高句麗伝)。
 −書籍を愛す。子弟は昼夜において読書習射す(「旧唐書」高句麗伝)。
 −高句麗の人々は錦の衣服を着て、金銀をもって自らをかざる(「三国志」東夷列伝)。

 つまり、「強い弓(兵)」「天をうやまい楽天的な人々」「教養が深く立派な衣服を身につけた」と高句麗について記している。(金宗鎮・在日本朝鮮社会科学者協会東海支部会長)

[朝鮮新報 2010.4.2]