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写真集「開城」が結んだ緑・静岡の遠藤さんを訪ねて

穏やかで上品な都開城 −日本敗戦直後、「マンセー」の歓声が溢れた街−

瓦の波が広がる開城の市街地

善竹橋

1940年撮影

朴淵の滝(左)、1935年10月撮影のもの

開城の南大門

1932年撮影

遠藤さんを囲んで記念写真をとる洪南基さん(右)と文光善記者

 昨春、東京の出版社から刊行された写真集「開城」(写真=文光善記者、文=洪南基さん)が話題となっている。開城は、朝鮮初の統一国家・高麗の歴史と文化が香る古都。同書には北南朝鮮、日本の学術関係者らの協力で蘇った中世、東アジア最大の寺院・霊通寺や大学者にして政治家として歴史に足跡を残す鄭夢周ゆかりのッ陽書院、終焉の地である善竹橋など古都ゆかりの遺跡写真が満載されている。静岡新聞の紹介記事でこの写真集の存在を知り、さっそく図書館で本を借りて読んだのが、静岡市内に住む遠藤うめさん(89)。遠藤さんは65年前、開城で敗戦を迎え、それ以来、「望郷の念」を抱いて暮らしてきた。

 釜山生まれで、ソウルの第一高等女学校で学んだ遠藤さんは開城で、16〜24歳までの8年間を父母とともに暮らした。本を開いた途端、「あまりにも懐かしい記憶が一気に蘇った」と話す。さっそく、高ぶる気持ちを文にして、出版社を経由して著者の洪さんに送った。

 「私がいた頃はこんな立派な古跡があるなんて全然知らなくて…。また、そのころは気持ちのうえでゆとりのないときだったので、どこも見ていなくて残念。善竹橋まで歩いて5分くらいのところに住んでいたので、成均館と博物館、満月台はよく行った」「開城は穏やかで、人の気持ちが温かく、静かで、平穏な、言うなれば上品な街だった」

 などとの思い出が綴られた手紙。高齢だが、パソコンを駆使し、洪さんとメールのやりとりをするようにもなった。そんな折り、今年2月、文さんと洪さんは遠藤さんに招かれ、静岡の自宅を訪ねた。

 ひとり暮らしだが、健康で生き生きと暮らす遠藤さん。寿司と、開城で習ったという自家製キムチで2人をもてなした。

 写真集を広げて、開城の思い出話に花が咲いた。

 「あの瓦屋根の波、松嶽山は昔のままね。航空灯台はもうないのだろうか。開城駅の周辺には高層ビルがたくさんできて…」と話が弾む。

 遠藤さんの記憶はどんどん鮮明になっていく。

 当時、朝鮮人参を主人公にした朝鮮の民話をよく聞いたことや、朝鮮人参は白頭山で採れる山参が最高級品。朝鮮人参の皮を削って、お風呂に入れたことなど。20歳くらいの頃、高熱が続いたときも、地元の人が煎じてくれた朝鮮人参を飲んで、病が治ったこと。開城では1年に1回、カラスの戦争といわれるほど空が真っ暗になり、天空をカラスが埋め尽くす日があることなどよどみなく語られていった。

 また、65年前の日本敗戦当時の話についても遠藤さんは遠い記憶を手繰り寄せてこう話した。

 「8月15日、官舎の一軒の家のラジオを囲んで、雑音のなかから戦争に負けたらしいことは聞き取れた。ぼう然自失。植民地の公務員として平穏無事な暮らしを続けていたので、心の準備はなかった」

 「16日早朝。橋の向こうに白い人影がちらほらみえる。国旗掲揚台の土台近く、上下真っ白な朝鮮服(男子の正装)で中には黒い山高帽までかぶった人たちが、叩頭の礼を繰り返している。頭上には鮮やかな朝鮮の国旗があった。その旗の絵を描いただけでつかまったのに、どこに用意していたのか。日本の敗戦を確信して、今まで黙々と暮らしていた朝鮮の方々の思いがようやくわかった」

 「19日。マンセー(万歳)と叫び踊る行列を裏山に隠れて見ていた。『私たちが守ります。何も持たず、山にいてください』という教育者だった父の以前の朝鮮の同僚の言葉を信じてよかった。翌日、所長はじめ幹部4人がソ連兵に連れて行かれた。父にも呼び出しがきたが、教育者ということで帰してくれた」

 「11月5日。開城に住む日本人全員が引き揚げた」

 遠藤さんは、開城の街は写真集で見るとおり、昔から「風光明媚な美しい都」であったと述べ、そこに住んでいた人々は「争いを好まない、学識が豊かな品のある方々ばかりだった」と懐かしむ。当時、映画館にもよく出かけたと振り返った。

 文さんと洪さんには「歴史が宿る古都の風情がいっぱいの魅力あふれる写真集を世に出してくれてありがとう」とギュッと手を握り、感謝の気持ちを伝えた。そして、「朝鮮民族を引き裂く苦痛の歴史に早くピリオドを打ってほしいと心から願っている」と語った。(文=朴日粉、写真=文光善記者、古い遺跡写真は遠藤さん提供)

[朝鮮新報 2010.3.26]