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〈朝大 朝鮮歴史博物館-7-〉 朝鮮の三国時代4 徳興里壁画古墳

 大展示室のなかでひときわ目立つものが徳興里壁画古墳の原寸大模型である。1976年に南浦市江西区域徳興里で発見されたこの古墳は、著名な高句麗壁画古墳のひとつといえる。余談ではあるがこの古墳は、発掘者の考古学者、朱栄憲氏同行のもと筆者が初めて訪れた壁画古墳ということもあり、筆者にとっても格別の思い入れがある古墳である。今回は徳興里壁画古墳についてみてみよう。

主人公の名は鎮

古墳に書かれた墓誌

主人公鎮

 高句麗の壁画古墳が100余基あることは以前述べたとおりであるが、その中で墓主(墓に埋葬された者)を特定できるのは徳興里壁画古墳だけといえる。

 なぜ、この古墳はその主人を特定することができるのであろうか。それはこの墳墓に墓誌(墓に書かれた死者の記録)があるからである。これによってこの古墳の主人が「〇〇氏鎮」とわかったのだ。この古墳のように墓誌が書かれるのは壁画古墳では大変めずらしいことといえる。

 よく見ると、墓誌には「永楽十八年」というくだりがある。永楽とは広開土王在位時の年号で、その18年は西暦418年にあたる。これによって築造年代が特定されたわけだが、このことも徳興里壁画古墳がもつ重要な特徴なのである。

 また、墓誌には鎮が釋加文佛の弟子(釈迦の弟子)であると記していることから、彼が仏教信者であったこともわかる。来館の際には模型入口から正面に見える墓誌をぜひ確認してほしい。

古墳に描かれた鎮

馬射戯の図

 古墳の間取りは、前室(古墳に入ってすぐの部屋)と玄室(奥の部屋で屍をおく部屋)からできていて、これを間道と呼ばれる通路で連結したものである。

 そして、すべての壁面には壁画が描かれている。壁画の一部が剥落しているのが残念だが、築後1600年という歳月を考えるとそれも納得できる。前室と玄室にひときわ大きく描かれた人物が先ほど紹介した鎮である。

 ところで、この古墳の壁画をつぶさに観察すると、前後の部屋で主題が異なっていることに気づく。前室の方は主人の公的な活動、玄室の方は私的な生活場面という具合である。

 なるほど、前室にいる鎮は多くの部下の前に座り、何か報告を受けているようである。前室右壁には鎧で武装した軍人の護衛のもと外出する模様も描かれている。

 天井には動物を狩る人物、旗や餅をもち空を飛ぶ神仙、太陽や月などが描かれている。また前室天井後部の牽牛と織姫、その間を流れる天の川は来館者を喜ばせてくれる。

 一方の玄室では牛車(牛がひく車)に乗って外出する素朴な姿や仏教の行事などがみえる。また高句麗で馬射戯と呼ばれた競技も描かれている。

 よく見ると、騎乗の男子が弓矢で的を射落とし、的のそばに立つ「注記人」が成績を記している。5世紀の高句麗古墳に、日本の神社で今も行われている流鏑馬の源流をみるのは実に驚くべきことである。(河創国、朝鮮歴史博物館副館長)

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[朝鮮新報 2010.3.26]