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〈遺骨は叫ぶ-33-〉 長野・松代大本営

「御座所」工事後、虐殺か 篠ノ井旭高生らの「平和の史跡」保存運動

 アジア太平洋戦争のとき、「大本営発表、我帝国陸海軍は…」と、粉飾され誇張された日本軍の戦果が、勇ましくラジオから流れた。この「大本営」とは、戦争の時に、天皇・陸軍参謀総長・海軍軍令部長とで構成し、戦争を指揮する最高統帥機関であった。大本営は、1893年に初めて置かれ、日清・日露戦争の時と、アジア太平洋戦争の時にも設置された。だが、日本軍の最高司令部であるこの大本営を、地方に移す計画が1944年に浮上した。

松代大本営地下壕群には恵明寺口からだけ入壕できる。全体の10分の1以下で、もっと公開することを望む声がでている

 1941年にハワイ・真珠湾の奇襲に成功した日本軍は、その後の緒戦でも勝った。しかし、半年後にミッドウェーで大敗北してから、日米の形勢が逆転した。1943年11月には、大本営が「絶対国防圏」(これ以上攻め込まれると日本本土が危ないとするライン)が、連合軍による太平洋上のマキン、タラワ両島の陥落、マーシャル群島のクエゼリン、ルオット両島の上陸で崩れた。

 本格的な本土空襲が間近に迫ったため、東京から大本営をはじめ、天皇、皇族、政府機関、日本放送協会、印刷局、通信施設など、国家と軍の中枢すべてを移転する計画が立てられた。この松代大本営の工事は、陸軍省の指導・管理の下に、西松組(現西松建設)と鹿島組(現鹿島)が請け負った。また秘密保持のため、「松代倉庫工事」(マ工事)と呼称された。

 工事に関係する土地買収は、1944年夏から始まり、つづいて飯場の建設、労働者移入と進められ、11月から本工事が昼夜兼行の突貫工事で始まった。日本の敗戦まで約9カ月の工事期間中に、延べ300万人が働いたが、「その中心は7千人以上の朝鮮人労働者でした。国内にいた朝鮮人のほか、朝鮮から強制的に日本に連行された人々が松代に送り込まれ、西松組、鹿島組」(「マツシロへの旅」)の飯場に入れられ、働かされた。その飯場は「屋根かけて板でぶつけただけで壁がない。雨でも降れば部屋の中へ雨が吹き込んでくる状態。飯場の中は、暖房どころじゃない。布団だって中は藁だが、破けちゃってボロボロになると、部屋の中だか豚小屋だか判らない」(崔本小岩)状態になった。強制連行の人たちは、朝鮮から着てきた夏の朝鮮服のままで冬も暮らした。

 朝鮮人たちの食料もひどかった。「飯場では配給米はわずかしかなく、麦やコーリャン、大豆が大部分で、野菜などはなく、野草を採ってきて入れて食べた。肉や魚などは、月1回あるかないかの程度で、3食ともコーリャン9に米1の割合の、真っ赤なご飯がアルミのお椀に一杯だけ。おかずは塩をふって食べた。栄養失調で死んだり、失明した人もいた」(「松代大本営」)という。だが、敗戦後に西松組の所長が逃げたあと倉庫に行くと、米、地下足袋、服などが山ほど積んであったというのだ。

 トンネル工事の現場は、岩盤が堅いうえに石が多く、難工事であった。当時は、機械といってもコンプレッサー、削岩機、送電、送水管ぐらいのもので、あとは手工事だった。削岩機で穴をあけ、ダイナマイトを仕掛けて発破させ、砕けたズリをモッコやトロッコで穴の外へ運び出した。この作業を繰り返しながら奥へと進むのだが、強制連行の朝鮮人はもっとも危険な穴の最前線の現場で働かされた。「穴の中だから風が通らない。砕けた岩の粉がもうもうとして、あたりは見えず目が痛い。体の弱い人は、倒れたり、岩が落ちて怪我をしたり、いつ死ぬかそればかり考えて」(崔本小岩)働いていた。

恵明寺口のそばに建っている「朝鮮人犠牲者追悼平和祈念碑」

 しかも、朝5時に出ると、夕方5時まで働くという2交替だったが、請負仕事なのでできるまで働かされた。工事中に落盤事故で死ぬ人も多発した。「多い時は、日に平均6人が死んだという。けが人なども続出した」(「中央公論」1959年7月号)が、そうした犠牲者は「すでに用意してある棺に入れ、車に積み込んでそのまま火葬場に運び焼いた。もちろん死亡診断などの手続きなどは行われなかった」(「月刊新信州」1967年3月号)という。犠牲者は、金井山にある火葬場で焼いたといわれるが、遺骨はどこにも残されていない。

 筆者が松代町に行ったのは、2009年の夏だが、町内を歩くと、いまでも噂話を聞くことができる。その中でも、とくに心に残ったのは、鹿島組では東京付近の工事現場から選抜して180人の朝鮮人を松代に連れてきた。人目につかない2カ所の飯場に入れて、秘密の工事をした。天皇の御座所だろうと言われている。その工事が終わった後、口封じのために 46人が殺されたという「朝鮮人虐殺」の話である。あとで資料を調べると、信州大学の調査報告にも書かれていた。

 松代大本営地下壕群の記録は、敗戦後に消却され、その全貌はいまだに判っていないという。しかも、敗戦後放置されていた大本営地下壕群を1985年に「平和の史跡」として保存しようと呼びかけたのは、篠ノ井旭高校の高校生たちであった。それから調査と保存運動が始まり、光があてられたのである。(作家、野添憲治)

[朝鮮新報 2010.3.23]