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雑誌「思想」特集−「『韓国併合』100年を問う」を読む

「今こそ示すべき新たな歴史認識」

「思想」(2010年1号、岩波書店刊)

 日本の代表的な思想・哲学関係の月刊誌である「思想」(岩波書店刊)が、全256ページを使って「韓国併合」100年を問うという特集を組んでいる(2010年1号)。

 これまで朝鮮・日本関係史に関して研究と発言をしてきた代表的な研究者15人が、それぞれ論考を寄せている。およそ5項目のテーマに分けられると考えられるが、それは@序論的な問題提起(2論文)A朝鮮の完全占領にいたる19世紀末から20世紀初期の歴史的過程について(3論文)Bいわゆる「日帝期」の日本の統治と朝鮮について(3論文)Cいくつかの時代の日本人の朝鮮観を中心に(4論文)D現時点で「韓国併合」をどう見るべきかという総括的な論文(3編)などである。

 紙面の関係で、いくつかの論文についてのみ、簡単に内容の紹介と感想を述べることにしたい。

 巻頭言と言える「『韓国合併奉告祭碑』の前で考える」(水野直樹)は、ごく短い行文のなかに、この特集全体の意図するところと論者たちの共通の立場をまとめて述べる序章的な性格の文章であるが、京都市左京区の三宅八幡神社の境内にあるこの大きな石碑は、1910年に「韓国併合」を祝って建てられたもの。

 「韓国併合」が、日本と日本人にとって「聖事」であり、(天皇の)「聖徳大業」であるという碑文を石に刻み、永く記念しようとしたもので、今後ともそのまま長く残っていくことであろう。

 「しかし、果たして『韓国併合』は、日本にとって日本人にとって『聖事』であり、『聖徳大業』であったのだろうか」と、論者は記す。

 かりに朝鮮支配が日本に利益をもたらしたと考えるとしても、それは朝鮮民衆の大きな犠牲の上に得られた利益であり、さらに、それが日本自身に何をもたらしたのか、不幸さえをも、もたらしたのではないか、考え直して見るべきではないだろうかと提起している。

進む東学農民戦争の研究

 次にAグループの論文の中に「東学農民軍包囲殲滅作戦と日本政府・大本営−日清戦争から『韓国併合』100年を問う−」(井上勝生)がある。

 理解を助けるために歴史的な前提をごく簡単に付け加えることにしよう。

 1894年、積年の悪政に抗して「逐滅倭夷、尽滅権貴」(日本と外国の侵略者を滅ぼし、権力者・貴族を尽滅せよ)の旗印を掲げ、東学信者を中核とした、東学農民革命・甲午農民戦争は全羅道を中心に、朝鮮全土に拡大する勢いを見せた。恐怖した朝鮮王朝は、清国にその弾圧を頼み、清国軍は牙山に上陸。これに対抗して、依頼もないのに日本軍は、清国との戦争を決意して、ただちに仁川上陸、その後、彼らはソウルに直行して王宮を占領、国王を脅迫して日本軍への協力を強要した。これを見た農民軍は、政府に和約を提起して、「全州和約」が成立、清・日軍の介入は不必要となった。

 清国の共同撤退の提案を拒否して、日本軍は不意に清国軍を攻撃、連戦連勝となる。勝利した日本軍は、朝鮮に対する侵略の意図を露骨にして朝鮮人民の前に立ち塞がるのだ。

 民族の危機を前にして農民軍は再び蜂起する。数十万の農民軍は、竹槍と少数の火縄銃をもって日本軍に立ち向かう。鬼神も泣かすと日本軍を戦慄させた農民軍であるが、日本軍の近代兵器に対抗できない。日本軍は、大本営の命令通り、周到な大包囲作戦を展開し、農民軍を全羅道西南端に追いつめ、捕虜を含めて「ことごとく殺戮」し、殲滅したのである。犠牲者は日清戦争の日本兵と清国兵の死傷者よりはるかに多数となった。日清戦争に次ぐ「第2戦争」といわれる所以である。

 ただし、この事実は秘密とされ、ほとんどの日本人は、今もこの事実を知らないのである。「坂の上の雲」の作者は、これを知ってか、知らずか、このことを作品には書いていない。

 朝鮮では1994年、東学農民戦争100周年を迎えて、全羅道を中心に、いくつかの団体によって記念集会と研究討論会が開かれた(筆者も何度も招待されたが、残念な事情のため参加できなかった)。

 民主化闘争の成果によって、東学農民戦争の研究は急速に進み、この井上論文もその成果を反映していることはもちろんである。今も南では、子孫への聞き書きと資料の探索が続けられ、研究が蓄積されている。

 紙面の制約のため、10余篇の好論文の紹介は省略せざるをえない。

はかり知れない苦痛

 さてDグループ、最後の論文「韓国併合100年と日本人」(和田春樹)を見ることにしよう。ロシア史・朝鮮研究者であり、また、すでに何十年も「市民としての運動」を続けている人である。

 和田氏は、すでに1984年、日本の知識人、キリスト信者136人が出した提言「朝鮮問題と日本の責任」に加わり、次のような朝鮮植民地支配反省謝罪の国会決議を提案している。

 「日本国民は、日韓併合が朝鮮民族の意志に反して強行されたものであると認め、日本が植民地統治時代に、この民族に、はかり知れない苦痛を与えたことを反省し、深く謝罪する」こと。

 その時点からすでに四半世紀が経過して、いま「韓国併合」100年という年を迎えているのであるが、この論文は、その間に人々がどのように努力したかを総括し、何ができ、何ができなかったか、そして現在の課題は何なのかを考えてみよう、と提言するのである。

 その間、良識ある政治家・知識人のさまざまな活動があり、それに対する保守派の歪曲と反対があり、時間の経過とともに、当事者(被害者も加害者も)は次々と死亡していくのである。

 ただ、戦後50年を迎える1995年8月15日、村山首相は談話を発表し、初めて日本は植民地支配によって朝鮮民族に「損害と苦痛」を与えたことを認め、「反省とお詫び」を表明したのであった。

 ただし、同年10月の参議院での吉岡吉典議員(共産党)の質問に対し、村山首相は引き続き「韓国併合条約は……法的に有効に締結され、実施されたものであると認識いたしております」と答え、多くの人を失望させたのである。

 その後も「併合条約」の「不法・合法論争」は、繰り返されているが、日本政府はいまだに「併合条約の不法・無効」は認めていない。

 和田論文は、政権交代した新政権は、この記念すべき年にこそ、「新しい歴史認識が示されることが望まれる」と結んでいる。

 ※なお、「併合条約の不法・無効」を政府に認めさせるため、一貫して努力されてきた吉岡吉典氏は、2009年3月1日、ソウルでの「3.1独立運動シンポジウム」のあと、心筋梗塞で亡くなられた。著書に「韓国併合」100年と日本、新日本出版社(2009年11月)がある。(金哲央、朝鮮大学校元教授)

[朝鮮新報 2010.3.15]