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〈本の紹介〉 東アジアのなかの日本

学問と生き方の結実

 本書のタイトルにもなった「東アジアのなかの日本」、それは1960年代からの著者の一貫した重要な研究テーマのひとつであった。これまでに単著59冊を刊行したが、それらの著書に収められなかった昨今の論文、講演録などが収められたのが本書である。

 著者は、鋭い人権感覚から在日朝鮮人や被差別部落の問題に積極的にかかわり、その問題意識から、従来の学説を総合する独自の方法で研究を大成した。古代朝鮮、南島文化、神祇と道教、日本神話、部落史、芸能史などの多大の業績の中に、朝鮮を正当に評価したいという史眼が貫く。

 2001年、平成天皇の桓武天皇と朝鮮の深い結びつきをめぐる発言は大きな反響を呼んだ。本書でも指摘されているが桓武天皇の後宮には、百済王氏出身の女性が9名入っている。桓武天皇の生母は高野新笠で、百済の武寧王の子孫であると「続日本紀」に記述されている。しかし、上田さんが65年に著書でその史実に触れた時は、「近く天誅を加える」だの、「国賊上田は京大を去れ」だのという物騒な手紙や嫌がらせ電話に悩まされた。

 上田さんが日朝問題を論じるときに、つねに指摘してやまないのが、第8次、第9次の朝鮮通信使の渉外担当(真文役)であった雨森芳洲(1668〜1755年)の思想と実践だった。

 対馬藩儒でもあり、優れた思想家、教育者でもあった雨森芳洲は、その著書「交隣提醒」でも「誠信と申し候は実意と申す事にて、互いに欺かず争はず、真実を以て交り候」と説いた。上田さんはその至言は、近、現代における日本と朝鮮の歪みを照射してやまない、というのが持論。

 東アジアの中の日本の有様を思索し、実践した雨森芳洲は、朝鮮語、中国語にも精通。「鎖国」の時代に、釜山にわたって朝鮮の政治、経済、文化などを実地に学んで、それを生活と外交に体現した。そして、秀吉の朝鮮侵略を「無名之師」と論破した。上田さんは、この雨森芳洲魂こそいまによみがえらせるべきだと常に強調する。

 先日、上田さんは朝鮮学校を高校無償化から除外しようとする日本の動きを厳しく批判し、京都ゆかりの文化人らと連名で、首相、文科相あてに要望書を送った。本書でも「あらたな『脱亜論』『興亜論』の台頭に警鐘を鳴らしながら、『今、大事なことは、民衆同士が連帯していくことだ』」と力説している。

 本書は日朝間の鋭い対立、敵対の時代にも、『民際』の言葉を打ち出して民衆同士の交流を説き、朝鮮民族の平和統一と朝・日国交正常化に惜しみない支援を寄せてきた上田さんの学問と生き方のエッセンスが結実したものといえよう。(上田正昭著、思文閣版社、2400円+税、TEL 075・751・1781)(朴日粉記者)

[朝鮮新報 2010.3.12]