top_rogo.gif (16396 bytes)

〈続 朝鮮史を駆け抜けた女性たちM〉 奴婢から貴族夫人に−鄭蘭貞

封建身分制への挑戦

実在の女性

鄭蘭貞のイメージ画

 ドラマ「女人天下」には、どう考えてもフィクションとしか思えない女性が登場する。ヒロイン鄭蘭貞である。両班(貴族)の父と奴婢であった母との間に生まれた妾腹の娘が、妓生に身をやつしつつ「運命」に逆らい、そこで出会った王妃の弟尹元衡(?〜1565)と恋に落ち、ついにはその正妻の座を手にするのである。名実ともに正妻になるために彼女は、出世し要職に就いた夫・尹元衡とその姉である王妃文定王后(第11代王中宗妃)の力を借り、法律さえ変えようとするのだ。朝鮮王朝時代に、まさかこんな女性が実在するなど信じられない話である。だが彼女は実在し、朝鮮王朝実録に20回以上その名を留め、いつ、どこで、何をしたのか克明に記録されている。たとえば明宗20年(1565)8月の条には次のようにある。

 「(尹)元衡が早くから正妻を捨て愛する妓生蘭貞をして(正妻を)毒殺せしめ、大妃に請い夫人へと位をあげさせ…」(元衡曾棄其妻、 使愛娼蘭貞毒殺之、請於大妃、陞爲夫人…)

 確かに彼女は実在した。だが、正史が語る鄭蘭貞は、「王妃に取り入った妖婦」「正妻を殺した毒婦」「士大夫を惑わす淫婦」、そして儒教的な身分制度を覆そうとした「公共の敵」としてである。

両班の「公共の敵」

鄭蘭貞の墓

貞敬夫人教旨(辞令)

 明宗4年(1549)、尹元衡の姉である文定王后は元衡に功績が多いという理由で、蘭貞の子らに他家の嫡出子との婚姻と、科挙を受け官吏になることを許可した。当時それは、法律で禁じられていることだった。また明宗8年(1553)3月、文定大妃は「尹元衡の妾に辞令を出すよう」息子である王に命じ、蘭貞は一足飛びに外命婦(王族の娘や妻、文武官僚の妻。夫の位に沿ってその位が決まった)従一品貞敬夫人になる。当時のすべての官僚の夫人のトップにである。蘭貞はそれだけに留まらず、差別に苦しむ多くの「庶子」についても考えていたふしがある。朝鮮王朝実録に、彼らの屋敷には全国から奴婢や庶子といった「賤しい」身分の者たちがいつも集まっていたという記述がある。また元衡は次のような上奏もしている。

 「人材の優劣は生まれ持った気質にあるのであって、出生の貴賎には関係がありません。もし才能豊かな者が妾腹だという理由で登用されないのなら、王の人材登用において貴賎を問わないということが道理だなどとは言いがたくなってしまいます」

 庶子にも科挙を受けさせよという旨だが、蘭貞の影響も大きかったはずである。士大夫たちにとっては儒教的な価値観の崩壊である。「庶子」や「賎妾」などが「大きな顔」をするような「乱れた世の中」は、彼らにとって許しがたいことであったはずだ。だからこそ、その差別から抜け出し思うままに生きようとする鄭蘭貞は、自分たちの既得権を脅かす「敵」なのである。領議政(首相)の「正妻」であり、文定王后の後ろ盾を持つ強大な力を持ってしまったのだからなおさらである。だから、後ろ盾であった文定王后の死後、前妻毒殺の容疑で二人は追われ、逮捕された蘭貞の使用人10人は拷問の末みな死亡している。最後まで誰も蘭貞が前妻を毒殺したと認めなかったという。

尹元衡との愛

ドラマ「女人天下」より

 蘭貞と元衡の出会いがいつだったかは定かではないが、二人の間に断ちがたいなんらかの感情があったことは確かだろう。 朝鮮王朝時代に「賎民出身の妾」を正式に妻に迎え、貞敬夫人になるよう助けた男性は他にはいないだろう。美貌や才気を理由にすることが多いが、彼らの場合価値観の一致ではないだろうか。儒教的価値観から士大夫には蔑まれ、当時異端だった仏教信者であったことも、彼らの結びつきの理由のひとつであろう。蘭貞が仏事を行った、元衡が「怪しい」僧と会っていた、文定王后は国教を仏教にしようとしていたなど、実録に詳しい。また、「身分」や「差別」に対する考えが同じであったのだろう。

 姉の後ろ盾を得て、権力の中枢に上り詰め、巨万の富をも築いた元衡はたいそう憎まれたが、官僚たちの弾劾の一番の理由が蘭貞を正妻にしたことだった。その蘭貞は最後に「人に制裁を受けるくらいなら自ら死を選ぶ」と言い残して服毒自殺を図ったという。(「朝鮮王朝実録」明宗20年)1565年11月13日のことである。

 鄭蘭貞も稀有な存在であったが、彼女を愛し、その後を追って服毒自殺した尹元衡もまた、いろいろな意味で稀有な存在ではないだろうか。(朴c愛・朝鮮古典文学、伝統文化研究者)

[朝鮮新報 2010.3.12]