〈シリーズ・「韓国併合」100年 朝鮮観を根底から覆す 中塚明さん−下〉 歴史の偽造をただす |
とことん読み込む
とことん史料を読み込むことによって、どんな新しいことがわかるのか、またその新しく見つかった事実は、従来の研究を大きく左右することがある。そんな経験を1994年、福島県立図書館佐藤文庫での「日清戦史草案」を調べたときの体験から述べてみたい。 私がここに「日清戦史草案」があることを知ったのは、専修大学法学部教授の大谷正さんに教えられてのことだった。この教えに導かれて94年の春、はじめて、佐藤文庫の調査にでかけた。大谷さんは日清戦争当時の、民間人で武器、食糧などの輸送にあたった人々=「軍夫」という従来の研究でかえりみられなかったテーマの重要性に着目し、地方の図書館巡りをしていて「日清戦史」の草案を見つけたのだった。 すでに軍事史の専門家や防衛庁の戦史研究者などの間では、佐藤文庫の名はつとに知られており、調査した研究者も少なくなかった。しかし、この朝鮮王宮占領の記録は専門家の間でも見過ごされてきた。だいたい参謀本部が書いた戦史は読んでいて面白くないというのが世間の評判だからだれも草案の中身まで読んだ人がいなかったのである。 1894年7月23日早朝の日本軍による朝鮮王宮=景福宮占領は、日清戦争の起点として、きわめて重要な事件である。これについて日本陸軍の最高の軍事指導機関であった参謀本部が公刊した「明治廿七八年日清戦史」には、八百字ほどの内容で「たまたま日本軍が王宮の東側を通行中、王宮守備の朝鮮兵から撃たれたので、応戦して王宮に入り国王を保護したのだ」と書かれている。
公式の戦史だから、誰も事実をきちんと書いてあると思うかもしれない。しかし、これはウソを書いていたのだ。
94年に新たに発見した「日清戦史草案」には、朝鮮王宮占領は、日清戦争を始めるにあたって、なかなか日本のいうことを聞かない朝鮮の国王を擒にして、日本軍のいうことを聞かせるために、事前に周到な準備をして、日本政府の出先機関である公使館(いまの大使館)と日本軍が緊密に協力して引き起こした計画的な占領であったことが詳細に記されていた。陸奥はわざわざ人を派遣してこの計画を伝え、この作戦計画を朝鮮に出兵していた日本軍が事前に練り上げて、実行したのである。これは、私自身もびっくりした。そこまでやるか、という狡猾で強引なやり方であった。 五十嵐さんという海上自衛隊出身で退職の前、防衛研究所に勤めていた方がいた。自衛隊は退職する2、3年前の自衛官を、東京・恵比寿の防衛研究所図書館にある戦史部に在籍させることがあるようだ。戦史部の自衛官は自由に図書館に入って資料を閲覧することができる。 五十嵐さんが新史料を発見し、これが「日清戦史の編纂方針だ」と史料紹介したのが、1903年(明治36年)7月の「参謀本部部長会議決定」である。当時、戦史編纂の担当部長であった大島健一参謀本部第4部長によって書かれたものだ。そこには「日清戦史草案」の朝鮮王宮占領の記述について、「あれは天皇の宣戦の詔勅の精神に違反するので書いてはダメだ、もっと簡単にしろ、あくまで天皇の宣戦の詔勅の趣旨にもとづいて、清朝中国の非望のために日本はやむなく戦争をせざるをえなかったというように書き直せ」という決定だった。それを五十嵐さんが紹介した。それで「日清戦史草案」が書き直された理由がはっきりした。 新しい発見続々 江華島事件についても新しい史料が見つかった。この事件は明治政府ができてから、日本が朝鮮に実弾を撃ちこんだ最初の事件、それは1875年の9月に、日本の軍艦「雲揚」がソウルの表玄関である江華島を砲撃した事件である。その「雲揚」の艦長は薩摩藩出身の井上良馨(当時は海軍少佐、のちに元帥)。彼は、この事件に先立つ2カ月前、この「雲揚」を率いて、朝鮮東海岸を偵察して帰国。海軍中央にあて意見書を書いた。 その要点は次のようなことである。「朝鮮はわが国にとても必要な土地である。…朝鮮を日本が領有するときはますます日本は国の基礎が強くなり、世界に飛雄する第一歩になります。日本の強弱は、朝鮮を日本の領地とするかどうか、この一挙にかかっている。…いま朝鮮は国が乱れている。もしこの天が与えたチャンスをはずしてしまい朝鮮を討たないときは、後々悔やむことになるかもしれない。…このチャンスを深く見抜いて、ぜひ早くご出兵になることを希望します」と。 この主張を海軍中央は承知したうえで、井上良馨に朝鮮の西海岸への出動を命じた。江華島事件はその結果起こった。日本では、江華島事件は日本の軍艦が飲み水を求めて島に近づいたら朝鮮側から撃たれたのがきっかけで起こった、事件は偶発的なものだというのが通説だ。しかし、ほかならぬ「雲揚」艦長、井上良馨自身が書いた文書によってそのウソは木っ端みじんに粉砕されてしまっているのではないか。 日清戦争で日本軍最初の武力行使は朝鮮の王宮占領であったが、これも偶然の衝突にすぎなかったと公刊戦史は書いている。 日本陸軍の参謀本部という公権力によって「歴史の偽造」が行われていたことが、ほかならぬ参謀本部の記録によって立証されたのである。 朝鮮王宮占領についての新史料を公表したときには無言電話がかかってきたり、批判がきたことはある。その一つに「開戦の真相と開戦理由の公式発表とが異なることなど別に珍しいことではない。米国がベトナムに介入するのに大義名分としたトンキン湾事件だってそうじゃないか。こんなことは古今東西の歴史でいくらでもある」と非難された。住所氏名を明記した手紙だから別に脅迫されたわけではないが、「中塚は歴史を知らない」という非難であった。 しかし、「トンキン湾事件」では、その真相は事件からわずか7年後の1971年に、アメリカ政府筋から新聞にリークされて明らかになったものである。日本では100年経って、その真相がやっと一人の研究者によって明らかにされた。問題なのはその違いは何なのかということだ。 複眼の立場で 2010年は「韓国併合100年」の年である。私は長い時間のモノサシと世界的な視野で「韓国併合」を考える必要があると思っている。1875年(明治8年)の江華島事件の井上良馨の意見書から、現在にいたるまでのこの百数十年のなかに「韓国併合」をおいてみると「韓国併合」とは何だったのか。とくに事実を隠し、歴史をゆがめてきた日本の近代を振り返り、日本国民の立場で考えなおしたとき、またアジアの諸民族の視点から、さらに欧米の帝国主義国の観点から「韓国併合」を考察するとき、歴史家の果たすべき課題は、なおいっぱいあると考える。(まとめ=朴日粉記者) ●中塚明氏プロフィール 1929年、大阪に生まれる。日本近代史専攻。近代日本における朝鮮問題の重要性を自覚し、60年代から日清戦争をはじめ近代の日朝関係の歴史を主に研究。63年より奈良女子大学文学部に勤務、93年、定年退職。この間、朝鮮史研究会幹事、歴史科学協議会代表委員、日本学術会議会員などをつとめる。奈良女子大学名誉教授。「日清戦争の研究」(青木書店)「近代日本と朝鮮」(三省堂)『「蹇蹇録」の世界』(みすず書房)「近代日本の朝鮮認識」(研文出版)「歴史の偽造をただす」「歴史家の仕事」「これだけは知っておきたい日本と韓国・朝鮮の歴史」「現代日本の歴史認識」(以上、高文研)など著書多数。 [朝鮮新報 2010.3.5] |