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〈シリーズ・「韓国併合」100年 朝鮮観を根底から覆す 中塚明さん−中〉 歴史の現場に立つ

徹底した調査を

「歴史家の仕事 人はなぜ歴史を研究するのか」(中塚明著)

 国会図書館に行くと受付カウンターの上の壁に「真理はわれらを自由にする」という言葉が彫りつけてある。あれは日本国憲法が作られたときの憲法担当大臣で、初代国会図書館館長にもなった金森徳次郎が国立国会図書館法の前文からこの言葉を選んで書いたものである。

 「真理はわれらを自由にする」

 戦前には公開されなかった文書が公開されて、戦前の天皇制の下での歴史の解釈がいかに間違っているか、事実はこうだということが知らされるようになったのは、憲政資料室ができたおかげである。

 こういうことに私の目を開かせてくれた山辺さんは、私の終生の先生といってよい。山辺さんには自伝である「社会主義運動半生記」日韓併合小史」(岩波新書)「現代史資料・社会主義運動」(みすず書房)などの編著書がある。

 私は岩波講座の仕事を基礎にして、「日清戦争の研究」(青木書店、1968年)をまとめた。それが私の処女作だ。その後、奈良女子大の講義をまとめたものが「近代日本の朝鮮」(三省堂、1969年)。こんな私の仕事が、みなさんの目にとまって1975年の夏、当時、日本弁護士連合会人権擁護委員長をされた尾崎陞(すすむ)さんを中心とした日本の弁護士、大学の教師、そして、朝鮮総連の主に社会局の人たちとで組織された日朝合同の「東北地方朝鮮人強制連行調査団」に参加した。この調査団による調査は、すでに北海道・九州などで行われていた。太平洋戦争の時期に日本に連行された朝鮮人で、帰れずに、いまも日本で生活している朝鮮人から聞き取りをし、実際に強制労働させられたところに行って、日本人の関係者からもできるだけ話を聞き、不明のまま放置されている朝鮮人強制連行の実態を明らかにするのが、調査の目的だった。

 また、79年には、同じ調査団による「被爆朝鮮人の調査」にも参加した。私は広島で調査にあたったが、ここでも被爆して、そのまま帰国できない朝鮮人から、被爆の実態・朝鮮人被爆者に対する民族差別の実態を、つぶさに聞くことができた。そこで女性の鄭スジャさんから話を聞いた。彼女は当時52歳だった。なぜ、印象が強いかといえば、夫は昔の国鉄(今でいうJR)に勤務していたが、被爆して亡くなった。それからあと豚を飼いながら、非常な苦労をして、2人の子どもを育てあげ、長男を朝鮮大学校に入れたと胸を張って語っていた。私は民族的な誇りにめざめた朝鮮人のすばらしい生き方に出会ってとても感動した。

「坂の上の雲」のウソ

 その後、山辺さんがやろうとした仕事だったが、77年に亡くなったために、私がその仕事をすることになり、「新訂蹇蹇録」(岩波文庫、83年)を出版した。ここでは憲政資料室所蔵の「陸奥宗光関係文書」にある「蹇蹇録」の草稿・第一次刊本・第二次刊本の異動を整理し、あわせて「蹇蹇録」の成立事情を明らかにした。

 また、「『蹇蹇録』の世界」(みすず書房、92年)では、陸奥宗光や伊藤博文についてさまざまに流布されている虚像のベールを剥がしていく作業を徹底的にやり、事実を確定することに務めた。結論的にいえば信夫さんなどもそうだが、「二重外交論」、軍部が引っ張って、文官は引きずられて戦争になったとする説はきわめて分析不十分であり、伊藤や陸奥が平和的に処理しようと見えるのは欧米列強の干渉を避けるための工作であった。

 いまNHKが放映している「坂の上の雲」で俳優・加藤剛が扮するのは伊藤博文だ。そのシナリオでは、伊藤は一貫して日清戦争、日露戦争を避けようとしていたという筋書き。加藤がガイドブックの中で、「伊藤は日清戦争をやりたくなかったので、開戦させないよう尽力した」とか、戦後、「外交の手段に武力を使ってはいけない」などと加藤があたかも伊藤になりかわったかのように言っている。大変、平和主義の人で加藤剛は感銘を受けたと書いているが、とんでもない話である。

 分かりやすい話をすれば、日清戦争の講和会議がなぜ、下関の春帆楼で開かれたのか。なぜ、当時、天皇が滞在し大本営もおかれていた広島ではなく、また清国にもっとも近い長崎でもなく、下関だったのか。私の長い間の疑問だった。それがある時、下関のホテルで一泊して、何気なしに窓から関門海峡の早い潮の流れやゆきかう船をぼんやり見ていたときに、その疑問が一挙に氷解したように感じた。というのは日清戦争当時、朝鮮や中国東北に向かう日本軍を乗せた輸送船は、広島の宇品を出てすべてこの関門海峡を通過したのである。

 あれこれ主張して講和条件を少しでも軽減しようとする李鴻章、こわもてに講和条約の受け入れを迫る伊藤博文、その緊迫したやりとりの眼前を日本の輸送船が続々と戦地に向かっていたのである。

 講和会議も終りに近づいた、1895年(明治28年)4月10日の会議、賠償金の減額や台湾割譲の不当を訴える李鴻章に対し、伊藤は「貴方がいろいろ論談されるのは妨げないが、我が方の条件は何ら変更できないことを承知してほしい。いまわれわれが最も努力しなければならないことは一日も早く講和を結ぶことだ。広島では戦地に向けて日本軍増派の準備はすでにできている。いつでも出帆できる輸送船は六十隻ある。現に昨夜から今朝までにこの海峡を通過した輸送船は二十隻に達している。その向かうところは天津のそう遠くないところだろう」(原文は「日本外交文書」第28巻)と日本側の講和条件の受諾を強く迫っている。

 天津は北京の玄関口である。つまり伊藤は、グズグズしていると北京を攻撃しますよと脅しているのだ。そういう歴史の事実をNHKのシナリオは知らんふりをしている。

 陸奥は和歌山出身。薩摩、長州の人ではない。だからなかなか出世できない。国内でも「まわり全部は敵」というような政治の世界でがんばってきた。西南戦争のときには西郷についたというので5年間も投獄された経験もある。そんな中で、外務大臣にまでのぼり詰めた。

 徹底的に日本の利益のためにやる。しかも、そのやり方は、露骨に日本の本心がわからないようにしてやる、そういう長けていた政治家であった。陸奥は日清戦争後もまだまだ政治的な野心もあったのだが、結核を患って、日清戦争の終わった翌々年に亡くなってしまった。

全体像を解明

 陸奥が日清戦争のときに行った外交指導のすべてを本にまとめたのが「蹇蹇録」である。

 陸奥はこの本を、日清戦争が終わった年の10月から書き始め、12月の除夜に脱稿したと書いている。しかし、いろいろ調べているうちにこれも事実と違うのではないかと思うようになった。

 こうした疑問をもって「蹇蹇録」の成立事情を調べていった結果、「明治二十八年除夜」脱稿の事実と違い、「明治明治二十九年二月十一日」であったことが、あらたに見つかった陸奥の秘書官であった中田敬義あて書簡で明らかになった。この未公開の書簡は、中田の孫である平林富子さんの家にあった陸奥の一連の書簡の中からみつかった。ここには陸奥の「これを最後の一篇とする、ついては手抜かりのないことと思うが、できるかぎり早く印刷して終わるよう骨折ってほしい」「緒言の文章は不出来なので、あなたが遠慮なく添削してくれるように」との二通の手紙も含まれ、いずれも「明治二十九年紀元節(二月十一日)夕」と明記されていた。

 なぜ、陸奥がこうした作為をしたのかといえば、わずか、「三ヵ月」でこれだけのものを書いたぞということを世間に知らせたい、そんなカッコつけたというところがあったと思う。それが陸奥の人となりにも大いにかかわる問題であることは間違いない。「蹇蹇録」の著述目的、ひいては陸奥宗光という政治家の全体像を解明する重要な鍵の一つが、こんなことにもひそんでいる。(朴日粉記者)

[朝鮮新報 2010.3.1]