〈シリーズ・「韓国併合」100年 朝鮮観を根底から覆す 中塚明さん−上〉 通念に疑問を、原史料あたれ |
NPO法人同胞法律・生活センターシニアネットワークの主催で昨年12月17日、歴史家の中塚明さん(80)を迎えて講演会が開かれた。同氏は昨年「司馬遼太郎の歴史観ーその朝鮮観と明治栄光論を問う」(高文研刊)を刊行したばかり。同氏は日本の立ち遅れた朝鮮観を根底から覆す視点を切り開いてきた研究者であり、日本近代史・日清戦争研究の第一人者として知られる。講演要旨はつぎの通り。
改ざんや書き直し
昨年9月17日に80歳になった。わりあい元気だが、先日も京都の長岡京市で講演し、90分立って話したが、二、三日しんどかった。年相応にと心がけないといけないと思っている。 「司馬遼太郎の歴史観ーその朝鮮観と明治栄光論を問う」という小著の帯には、「朝鮮史研究の第一人者」と記されているが、あれは出版社がつけたもので、私の専門は日本近代史の研究である。ただ、日本の近代は朝鮮への侵略から始まったのだから、朝鮮問題を絶えず視野において近代史を学ばなければならない、と考えて研究を続けてきた。 私が学恩を受けた人に山辺健太郎さん(1905〜77)という人がいる。非転向の共産党員であった。小学校卒業で、いわゆる学歴はない。大正時代に大阪の丸善の店員をしていて社会主義者たちと接触があった。が、まもなくそこをやめて社会運動家となるが、1929年の4.16事件で検挙される。4年ほど獄中にいて、非転向で出獄。太平洋戦争開始とともにまた検挙され、予防拘禁所に入れられ、45年10月10日、治安維持法廃止で出獄した。 非常に愉快な人で、なぜ、この食料難のときに転向して出ていくのか、ここにいれば、三食食えるのにと、ときわめて楽天的だった。朝鮮人労働運動の指導者の一人であった金天海と予防拘禁所でともに生活した。 敗戦後、日本共産党の活動をしながら本格的な歴史の勉強を始めた。社会運動をやっていたから社会運動史を研究しなくてはいけない、そのためには、日本の資本主義発達史を研究しなければならないと。 山辺さんはなぜ朝鮮問題を研究するようになったか、次のようなことを言っている。
「野呂栄太郎の著作『日本資本主義発達史』は大変立派な研究であるが、植民地収奪の問題が欠けていると。これでは日本の資本主義発達史は完全なものにならないということで、朝鮮歴史研究に本格的に取り組むことになった。
台湾については東京大学・矢内原忠雄教授の著書『帝国主義下の台湾』(1929年刊)があるが、「帝国主義下の朝鮮」という本はない。その理由は、朝鮮には台湾と比べものにならないくらいの有力な民族解放運動があったからで、この民族解放運動をいささかでも刺激するような、朝鮮における日本の帝国主義政策を批判する研究発表は許されなかった」 もう一つ山辺さんから教わった大事なことは、天皇制の支配下で書かれた本とか編纂された史料には往々にして改ざんや書き直し、削除がある。だから元の原史料(第一次史料)を探して研究するようにということである。この二つを教わったのは私だけではなく、在日の歴史家である姜徳相さんたちも同じように影響を受けたと思う。 山辺さんに導かれて最初に行ったのが、1961年、国会図書館の憲政資料室だ。憲政資料室は戦後にできたもので、大久保利通の孫である歴史家・大久保利謙先生の大変な功績が忘れられない。 日本の戦前の政治家・軍人・華族たちは戦後没落した。憲政資料室をつくって、彼らが持っていた先祖の史料類を国費で買い上げて、整理して、公開することを積極的に進めた。大久保先生自身、戦前は華族だったので、日本政府にとっても信頼できる家柄。先生は学者の立場で、これからの日本の歴史研究のためには集めた史料を全部公開すべきだということで、文書を整理し目録を作って公開するようにした。それが今の憲政資料室になった。 私はそこで陸奥宗光関係の文書を見せてもらった。陸奥は日清戦争のときの外務大臣。非常な切れ者で、「蹇蹇(けんけん)録」という日清戦争の外交指導を回想して一冊の本にした。歴代の外務大臣はいっぱいいるが自分のやったことを、その事件の直後に活字にして本にしたのは陸奥だけである。 陸奥宗光関係文書には、日清戦争関連の陸奥をはじめ、当時の政治家が書いた手紙、訓令の草稿、条約草案などがいっぱい収められている。これらの文書はこの憲政資料室ができてはじめて公開されたものである。「蹇蹇録」でさえ国家機密が含まれているということで、1929年(昭和4年)に岩波書店から「蹇蹇録」が出版されるまでは公開は禁じられていた。 「日本の素顔」 1960年当時、企画が進められていたのが「岩波講座日本歴史」。「日本歴史講座」は戦前に一度刊行されているが、戦後は初めてのものだった。その編集委員の一人、井上清先生から、その中の「日清戦争」を書かないかというお話があって、執筆することになった。聞くところによると、「日清戦争」の執筆者として、すでに実績のある信夫(しのぶ)清三郎氏があげられていた。彼は、元外交官であり、国際法、外交史、国際政治の学者として知られた信夫淳平氏の三男で、九州帝国大学で学び、1930年代から日本外交史、とりわけ日清戦争の研究を続けてきた人である。 信夫清三郎氏は、日清戦争の研究で、この戦争を引っ張っていったのは、戦争を指導していた最高機関・参謀本部次長の川上操六陸軍中将であり、陸奥などはむしろ日清両国の力の均衡状態を作り出そうとしただけで、戦争をやる意図もなく、やる気もなかったという説を出した。伊藤博文とか陸奥は、平和的に処理をしようとしたが軍部に引きずられて開戦になったというのが、信夫さんの主張だった。ところが信夫さんが「岩波講座日本歴史」の執筆依頼を断ったといわれている。それで山辺さんが「中塚に書かせたら」といって私が書くことになったようだ。 このことがきっかけで、憲政資料室に出かけ、解禁されたばかりの陸奥の文書を見て、私は日清戦争の研究を始めることになった。京都にいたので、日常的に第一次史料を見ていたわけではない。これが初めてだった。 そのときの印象は、「これが日本の素顔か」ということだった。たとえば、日清戦争が終わっても日本の軍隊を引き続き朝鮮に駐留させておきたいという願いを、朝鮮政府から日本政府に出させるという外交文書の原案を日本政府が作っている、日本外務省の罫紙に書かれたそういう文書がある。また「大日本大朝鮮秘密条約」という秘密条約草案、あるいは「鉄道電信条約草案」…、つまり日清戦争以降も日本が朝鮮を従属させるためのいろんな条約草案の原案が陸奥宗光関係文書にいっぱいある。「なるほど、これが生の史料か。日清戦争は、『朝鮮の独立』のための戦争だと宣戦の詔勅をはじめ日本政府の条約などいろいろなところで公言されてきたが、本当はこういうことだったのか」と、日本の生の史料で初めて確認した。(まとめ=朴日粉記者) [朝鮮新報 2010.2.26] |