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〈渡来文化 その美と造形 6〉 法隆寺の建築様式

金堂(8世紀初、重要文化財)、上部が卍崩し勾欄、下部が人字型割束

 旧法隆寺若草伽藍は7世紀初に建立されたようであるが、670年焼失した。

 今の法隆寺の再建がほぼ成ったのは8世紀初といわれる。

 ところで、「上宮聖徳太子伝補闕記」によれば、「旧法隆寺の全焼後、人々は新しい寺を建てる土地を決定できなかった。そこで、百済の入師に人々を統率させて京都太秦に蜂岡寺(今の広隆寺)を、川内(河内=大阪)に高井寺を造らせ、また百済の聞師・圓明・下氷君雑物らの3人に三井寺(今の法輪寺、法隆寺のやや北にある)を造らせた」とある。つまり、焼失した法隆寺の代替寺のようにいくつか寺を百済人の力を借りて建てた、ということである。

 とすると、7世紀末から8世紀初、もとの地に「法隆寺」を再建するのに、焼失「法隆寺」の代替寺を建てた百済人が、やはり引き続き現在残るそれの主導者になった、と考えるのが合理的である。

 さて、法隆寺の建築様式はどうか。少し注意すればすぐ目につく特徴がある。

 @柱の上部の斗組の一部である皿斗。
 A柱が中央部に向けて上下から少しずつふくらみを持ち、中央部が最も膨らむエンタシス技法。
 B人字型割束。
 C卍崩しの勾欄。

 残念ながら朝鮮の古代から近世の木造建築はたび重なる侵略(とくに豊臣秀吉の侵略時が甚だしかった)によって残るものとてないので、現物では比較できない。

 高句麗古墳の壁画に見える建築様式は、法隆寺の特徴@〜Bと完全に共通する。「卍崩し勾欄」だけは壁画に見当たらないが、新羅松林寺の塔内の舎利客器や、首都であった慶州の鴈鴨池(7世紀後半)の中からもその部材が発見されている。

 このような建築様式は、朝鮮ではまず高句麗で盛んに用いられ、やがて百済・新羅に波及し、さらに日本に百済を介して伝えられたものであろう。

 この推測は、仏教の公式的受容が、高句麗372年、百済384年、新羅528年であるから、あながちのものではない。

 付言すれば、法隆寺建築の地割や建築そのものに使用された尺度は高麗尺(高句麗の尺度、一尺が35センチ強)であったというのもなかなか興味深い。(朴鐘鳴 渡来遺跡研究会代表)

[朝鮮新報 2010.2.22]