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〈歴史×状況×言葉 朝鮮植民地支配100年と日本文学〉 第2回 夏目漱石(上)

帝国日本の心象地理を刻印

 「どうして、まあ殺されたんでしょう」−文豪・夏目漱石(1867〜1916)の小説「門」(1910年「韓国併合条約」締結直前の時期に連載)の一幕、主人公宗助の妻お米の台詞である。伊藤博文射殺の報に驚いた彼女が、宗助とその弟小六に理由を尋ねる。だが二人の答えは要領を得ないもので、お米の再三の問いかけに対し正面からまともに応じようとしているようには見えない。

 漱石の朝鮮観で言えば、「満韓ところどころ」(1909年)に露わな中国、朝鮮への蔑視観はつとに批判の対象となってきた。この紀行文は「韓」の部分は書かれていない。連載が年を越すのを厭い年内で打ち切ったためだが、実際には、漱石は伊藤射殺事件の後に朝鮮紀行を書くことをはばかる気持ちがあったのではないか。旅行中の日記に見える朝鮮へのわずかな同情心からか、伊藤追悼と朝鮮への憎悪感情が渦巻く国内ムードのなかでいたずらに朝鮮について書くのを控えたのか。何より、「門」の宗助はお米の問いに答えなかったが、漱石自身は伊藤が「どうして殺されたのか」について、まさに「満韓−」を連載していた新聞紙上に紹介された、安重根による「15箇条」の伊東殺害理由を通じて見知っていたはずだ。ならばその上で、伊藤射殺の現場に自分も居合わせたかもしれないという、ありえた運命を想像して慄然としたのだろうか(漱石の帰国直後、同じコースで満州に赴いた伊藤はハルピンで射殺された。漱石はこの伊藤との「ニアミス」について寺田寅彦宛の手紙に記している)。

 ともあれ朝鮮植民地支配をめぐる動き、漱石自身の執筆過程をふまえて、「門」は読まれるべきだろう。

「漱石全集」(岩波書店)に集録されている「満韓ところどころ」

 冒頭にあげたやりとりのなかで、「とにかく満洲だの、哈爾賓だのって物騒な所ですね。僕は何だか危険なような心持がしてならない」と話す小六は一方で、「(大学進学が)もし駄目なら、僕は学校をやめて、一層今のうち、満州か朝鮮へでも行こうかと思っているんです」とも言う。一見相矛盾した二つの台詞は、植民地への二律背反的な心性、つまり恐怖と嫌悪の対象でありながら同時に冒険の対象としての植民地のイメージを示している。宗主国人にとって植民地とは未開で野蛮で危険な土地(だから「文明化」してやるのだと支配を正当化する)である一方、本国内からドロップアウトした者たちにとって再起のチャンスをつかむ魅惑の新天地であった。彼らが植民地支配の尖兵として、大陸に赴き貪欲と放埓の限りを尽くすのである。宗助の裏切りによってお米を奪われた安井もまた、「冒険者」と呼ばれる大陸浪人となり満州へ渡っていたのだった。

 同じく満州へと渡る「草枕」のヒロインの先夫や「彼岸過迄」の森本、絶筆となった「明暗」では朝鮮の新聞社に勤める小林の幻影が主人公津田を苦しめる。このように漱石の作品世界の陰影として、植民地を拡張していく帝国日本の心象地理が刻印されているのである。しかしそれは帝国の中心と、周縁たる植民地との関係を直接あぶりだし問い直すものとして表われることはない。他者としての朝鮮人が(「門」の場合、安重根が)登場することはないのだ。

 「門」における漱石の意識は、あくまで宗助の安心立命を脅かし、いかに遠ざけようとも、彼方から常に自我を苦しめる存在としての心理的距離と恐ろしさを付与するため、安井に植民地人の身体をまとわせたのだろう。しかし漱石の無意識においては、現実としての植民地支配とそれへの抵抗が否応なく影を落としていたはずだ。

 伊藤博文は「どうして殺されたのか」。作中で語れなかった/語ろうとしなかった、その余白を読むことで、かえって漱石の朝鮮への対し方の問題性が見えてくるのではないか。次回も引き続き考えたい。(李英哲 朝鮮大学校外国語学部助教)

[朝鮮新報 2010.2.22]