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女性同盟大阪・旭都支部顧問 権福達さんの手記刊行 次世代へ祖国愛を語り継ぐ

誇りある生の輝き、今も

「私は生きた」(問い合わせ=南鳳珠、TEL042・678・0348)

 このほど、「私は生きた−女性同盟支部委員長の手記」と題する415ページの本が、家族の手によって自費出版された。7年前に85歳で死去した女性同盟大阪・旭都支部顧問権福達さんの自叙伝である。

 権福達さんは植民地時代の1918年に朝鮮慶尚南道で生まれた。家の没落によって、両親とは生き別れ、極貧の暮らしから他家に貰われていくなど、あらゆる辛酸をなめた朝鮮での幼少時代。

 母と再会後、7歳で渡日。日本人のもとで子守り、女中奉公に明け暮れ、その合間を縫って小学校へ。しかし、それも途中までしか通えずじまい。その後、15歳で結婚し、7人の子どもを育てあげた。

 そんな苦難の道を歩んだ権さんだったが、解放後、祖国の懐を知り、女性同盟と出会い、朝鮮女性としてめざめた。

「三池淵」号で祖国訪問の途へ(1982年)

 57年、39歳で女性同盟旭都支部の総務部長(非専従)となり、総連の成人学校で朝鮮語の読み書きを必死で習い、60年、42歳で同支部女性同盟委員長(専従)となった。

 そして、「五十の手習い」よろしく68年3月、ちょうど50歳になってから、それまでの人生を振り返る回想記と日々の悲喜こもごもを、日記帳や大学ノートに綴るようになった。その習慣は亡くなる2年前まで33年間続いた。また、89年12月10日から90年2月13日にかけて、日本語による自叙伝を書き上げた。

孫の入学式に付きそう権さん(1977年)

 権さんは顧問になったあとも、組織を守るために闘いつづけた。94年4月、日本当局は1300余人の武装警察を動員して総連大阪府本部に対する弾圧事件を引き起こした。

 このとき、76歳の高齢をおして、府警に対する抗議デモに参加した権さんは朝鮮新報に次のような手記を寄せた。

 「…すでに亡くなった夫とはよく口喧嘩したが、こっそり支部などに差し入れなどしてくれた。心の中では『迷惑をかけた』と思っていた。でも、私は『死んでもこの道で死ぬ』という一心だった。その総連の家の中を土足で上がりこんだ日本の警察はまるで泥棒だ。4月25日から、2日に1度のペースで府警に抗議に行った。しかし、やはり年なのか左ひざを痛め、一時は立ち上がるのもやっとだった。歩いても心は若々しくいきたい。拳を振りかざす力もなかったが、抗議の場には足を運び続けた。1人でも多い方が力になると思ったからだ」

大阪府警に抗議する権さん(94年6月27日付新報)

 「私は朝鮮語で日記をしたためている。死んだ後、孫たちに見てもらうためだ。5月6日付に、『帝国主義の本質は、何も変わっていない。…法も権力も持ちえない私たちにあるのは団結だけだ』と書いた。その中で『2世、3世の団結が少し弱いように見えた』と記した。当初、抗議の場に青年の姿が少ないと思えたからだ。しかし、そうではなかった。実際は当日も多くの青年が駆けつけた。…日曜日には1500人以上が駆けつけたが、半数近くが青年たちだった。今度、日記には『以前、青年たちについて書いたことを訂正する』と書くことにする」

 権さんの組織と次世代に寄せる切ないほどの愛情がヒシヒシと伝わってくる一文であろう。

 本書は、そうして遺されたぼう大な朝鮮語と日本語の遺稿を編んだもの。手記を世に出そうと労を惜しまなかった次女の南鳳珠・女性同盟西東京本部顧問はこう語った。

孫娘の結婚式で新郎から花束を受けとる権さん

 「私自身も女性同盟の長い専従生活を終え、時間ができてやっとオモニの手記に目を通すことができた。オモニのつたない文からは、筆舌に尽くせぬ苦難の道のり、その後の祖国と金日成主席に導かれての誇りある人生への喜び、そして、わが子や孫たちへの惜しみない愛情がほとばしり出るようだった。そんなオモニの血と汗の滲むような生き方があったからこそ、その先の2、3世たちの誇りある時代が開かれたのだと思う。ひとり私のオモニというだけでなく、在日1世女性たちの人生の証だと思い、本にしたいと思った」

 本書を貫くのは、権さんが一生をかけて守り抜こうとした祖国への愛、家族への思いである。飾らぬ言葉と歴史とともに歩んだ実直な人生が刻まれている。そこには題名そのままの「生きた」輝く人生が広がっている。(朴日粉記者)

[朝鮮新報 2010.2.19]