〈第32回在日朝鮮学生「コッソンイ」作文コンクールから〉 高級部 作文部門 1等作品 |
横網公園を訪ねて 「君たちは横網公園を知っていますか?」 現代朝鮮歴史の時間に先生がこう質問された。 そのとき僕は、この質問の意味を深く考えられなかった。 ただそこに関東大震災の資料が展示されているだけだと思っていた。 先生は、まず資料を配りながら、僕たちに学習してみろとおっしゃった。 資料には、関東大震災の被害状況といろんな事実が書かれていた。 もっとも衝撃的だったのは、朝鮮人大虐殺に関するできごとだった。 この資料によると、地震によって混乱状態に陥った国民の意識を他に向けるために、流言飛語が流されたというのだ。 それも他ではない、日本の軍や官憲の手によってだ。 「朝鮮人が井戸に毒を入れた」 「朝鮮人が暴動を起こした」 「朝鮮人が家に火をつけた」 このようなデマを信じた日本人らは、自警団を組み、朝鮮人を片っ端から殺した。 自警団は人々に、「十五円五十銭」という言葉を言わせて、少しでも発音がおかしいと手当たり次第に殺していった。 無念の死を遂げた人々の中には、中国人、方言を使う地方出身の日本人、障がい者たちもいたという。 自警団による犠牲者の数を日本政府は公表しようとしないが、調査によると6千余人にのぼるという。 (同胞たちがこれほどまで多く犠牲になったというのに、僕はあまりにもノホホンとしていたのではないか) 資料を読み、僕はあまりにも無関心であった自分を責めた。 すごく胸が痛かった。 (悔やむだけではなく、何かしなくてはならないのではないか?) それで僕は、この事件をより具体的に知るために、直接横網公園に足を運ぶ決心をしたのだった。 日差しが照りつける夏のある日、僕は横網公園を目指して家を出た。 横網公園は両国駅を出て10分くらい歩いたところにある。 駅を出て5〜6分行くと、建物の上の部分が見えた。 公園の入り口を通りいくらも行かないうちに慰霊堂の全景が見えた。 慰霊堂に入ると、大震災直後の状況を感じられる油絵が展示されていた。 死体の絵、倒れた建物の絵…。 絵は、大震災当時の状況をそのままよみがえらせているようだった。 1923年9月1日に発生した関東大震災は、死傷者20万2436人、行方不明者4万人を超えたという。 大震災時の残骸も野外に展示されていた。 壊れた自動車に、建物の残骸に、原形をとどめない魚雷まであった。 これらは地震の規模と悲惨さを知らせるうえで、とても説得力のあるものだった。 この地震でたくさんの子どもたちも犠牲になった。 僕は子どもたちのために建てられた追悼碑を訪ねた。 地震は瞬時に子どもたちの命も、未来も奪っていった。 僕は子どもたちがあまりにもかわいそうでならなかった。 (あの子たちにはどんな未来が待っていたのだろうか?) こんなことも考えてみた。 (しかし待てよ…) (わが同胞たちは、自然災害で死んだのではなかったじゃないか?!) 彼らは、紛れもない、軍憲らにあおられた日本の民衆によって虐殺されたのだ。 僕の足は朝鮮人追悼碑に向かっていた。 最低の賃金で江戸川の河川工事をしていた朝鮮人が、恐怖のあまり立てずにいると、「立てないのか、この鮮人野郎!」と叫びながら、民衆は日本刀で彼らの太ももを突き刺し、泳げなくすると、川に投げ捨て殺したという。 あえぐ同胞たちを棒で殴り殺し…、罪のない女性を貨物車で轢き殺し…。 僕はとても信じられなかった。 しかし、この悲しい歴史は、日本人の手による朝鮮人大虐殺は、事実なのだ。 僕は追悼碑の前で長い間黙祷を捧げた。 (なぜ同胞たちは無残にも殺されなくてはならなかったのか?! なぜ朝鮮人が標的になったのか?!) (なんの『罪』もない人たちを瞬時に殺すとは…) (朝鮮人の命は、日本人の命より粗末で、価値がないというのか?!) 命! 僕はもう一度命の重さについて、考えずにはいられなかった。 僕にはそれなりの理由がある。 僕は生まれつき他人とは違っていた。 肺胞低換気症候群という難病のために今でも普通の人のようには眠れない。 疲れてつい眠ってしまったり、気絶をしても、僕の命は危機にさらされる。 だから眠りにつくときは、機械を使って酸素濃度を調節しながら眠らなくてはならない。 両親と同胞たち、そして僕のために治療方法を考えてくれる医師たち…。 ひとつの命がどれほど尊いものなのかを、僕は肌で感じている。 どの国の人であれ、それが誰であれ、命が大切でないはずがない。 (しかし、同胞たちは…どうして?!…) 僕は追悼碑の前で考え、また考えた。 (国がないからこうなったというのか?!) 胸が痛く、張り裂けそうだった。 これまで僕はこの言葉を真剣に考えたことがなかった。 しかし、追悼碑を見ながら、僕ははっきりとわかった。 朝鮮人が異国でこれほどまでにも無残に殺されていった残像は、何を物語っているのかを。 そうだ! 国がないと「僕」もないのだ。 今、僕が存在するのも、まさに国があり、尊厳があるからなのだ。 祖国と同胞社会があって僕が存在するといっても過言ではない。 難病を抱えて生まれてきても、僕は今、何の制限もなく暮らしている。 親の愛と、同胞たちの愛情に支えられて、外国へ行き手術を受けたこともある。 僕はこれまで、これが当たり前のように与えられたものだと疑わずにきた。 しかし、その考えはあまりに浅はかなものだった。 国がなく、同胞組織がなかったなら、差別の中で僕の運命はどうなっていただろうか?! そうだ! 僕は「僕」ひとりで存在するのではない。 国があって同胞社会があり、僕が存在できるのである。 目の前がパッと明るくなった感じがした。 日はすでに西に傾きはじめていた。 僕はここで得た真理を胸に刻み力強く家路に着いた。 (東京朝鮮中高級学校 河棟ル) [朝鮮新報 2010.2.19] |