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〈続 朝鮮史を駆け抜けた女性たちL〉 二人の大臣が争った奴婢−金哲非

「権力者の醜い独占欲」

「争妾」

 もし今、政治家が、他家の家政婦を愛人にしようと取り合い、そのあげく、国会で証言しなければならないようなことが起こったとすれば大問題だろう。今日の長官に相当するが、業務のない名誉職であった同知中樞府事・李永垠 (1434〜1471)と、禮楽や祭祀、宴享、朝聘、学校、科挙などを担当した禮゙の長官・金謙光(1419〜1490)は、奇しくも同じ奴婢をめぐり「爭妾」(百科事典)を繰り広げた男たちである。当時、権力の中枢にいた男たちが見せた「愛の劇場」は、はたしてどういうものだったのだろうか?

ドタバタ劇の末に

金哲非(イメージ)

 哲非は、官僚の人事を司る正郎・權以經の奴婢であったが、「主人」の死後、父・金殷とともに星州に移り住んでいた。李永垠は、權以經の妻といとこ同士だったため、早くから哲非を知っていた。權以經の死後すぐさま哲非の両親にも約束を取り付けた李永垠は、哲非を囲う準備をしていたが、たまたまそれを知った金謙光が、哲非を奪おうとする。事件は国葬の真っ最中に起こる。

 李永垠は国葬中に沐浴に行くと嘘をつき、哲非を求めに星州に行く。これを知った金謙光は観察使に告発、観察使ではこれを受け星州に急行、強制的に哲非を漢城に移送した。彼女は金謙光の差し金であちこち移送され、ついには金謙光の妾になる。それを知った李永垠は自分が先に話をつけたではないかと哲非の両親に直訴、權以經の妻であるいとこに頼んで哲非を逃走させるが、金謙光がさし向けた追手に捕まり監禁されてしまう。修羅場である。この事件は瞬く間に人々の口に上り、ついには司憲府掌令・朴崇質によって王に報告され、これを罰するよう上奏するに至る。このとき李永垠34歳、金謙光49歳。

そこに愛はなく

「朝鮮時代の上奏文」(16世紀)

 朝鮮王朝第9代王・成宗は、執拗に上奏を続ける臣下を尻目に二人を和解させようとする。事件が拡大し、指導層に対する民の反感を心配したのだ。だが、風紀を乱したかどで二人を罰せよとの臣下の上奏は止まるところを知らず、とうとう二人は義禁府の取り調べを受けることになる。奴婢の取り合いなど恥ずべきことだが、臣下たちの騒ぎようも異様なものだったと言える。

 当時李永垠は、多くの人々の憎しみを買っていたふしがある。祖父が大学者・李穡(1328〜1396)。名門の生まれであり、李永垠自身も文章に優れ普通30代で合格する科挙に23歳で及第、王の寵愛も篤かった。だが王の寵愛を盾に、年若いにもかかわらず高慢な態度を取り、請託を受け賄賂を要求、市では靴の代価を正当に支払わないばかりか、納期が遅れたと言っては職人を獄につないだこともあった。また金謙光は成宗の功臣として出世するも、史官の記録によると強欲で、蓄財のためには恥を知らず、相当な財産を築いたとある。

朝鮮を代表する大学者李穡

 結局、事件はあっけなく幕切れを迎える。審問を受けていた李永垠が興奮のあまり気絶した後、そのまま死んでしまったのだ。本当に「言葉だけ」で、審問していたのだろうか。金謙光は一貫して罪はないと白々しく言い張ることで周囲の注意を自分に向け、事件を政治的に利用し二人をかばう王を窮地に追い込もうとしていた者たちの意図を挫き、王の信頼を得る。更迭されて2カ月後、すぐに漢城府判尹、現代で言えばソウル市長に任命されるのである。

 だがなぜ二人は、こんなにも哲非に執着したのだろうか。大司憲・韓致亨(1434〜1502)も疑問を持ったらしく、後に哲非の母に訊ねている。母、答えて曰く、哲非は絶世の美女ではなかったが、財産を相当持っていたと。事件の顛末は金謙光にのみ有利に働き、そこには哲非の感情や意志など微塵も反映されてはいない。李永垠との「身分違いの美しい恋」も存在しない。ただそこには、権力と富に対する薄汚れた欲だけがある。「愛の劇場」ならぬ「強欲の劇場」とでも言えようか。(朴`愛・朝鮮古典文学、伝統文化研究者)

[朝鮮新報 2010.2.12]