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〈朝大 朝鮮歴史博物館-6-〉 朝鮮の三国時代3 高句麗壁画古墳

高句麗文化の真髄伝える

 当館を訪れる人々から好評を得ている展示物が、80余点におよぶ高句麗古墳壁画である。これは、高句麗貴族が遺した墳墓の石室に描かれた壁画を原寸大に模写したものだ。当館が所蔵する壁画のもととなる高句麗壁画古墳が、2004年7月、ユネスコ世界遺産に登録されたことは周知のとおりである。今回からは数回にわけて高句麗古墳壁画についてみてみよう。

墳墓と壁画古墳

平壌の石室封古墳(筆者提供)

 高句麗(紀元前277年〜紀元668年)の人々は、石を用いて造ったさまざまな建造物を遺している。以前紹介した広開土王陵碑や山城も、石を巧みに使いこなしたものであるが、高句麗人は貴族たちの墳墓も石を加工して築いていた。

 高句麗ではじめに築かれた墳墓は積石塚とよばれるもので、これは石で墓槨(埋葬部)をつくりその上に小石を積み上げたものである。ところが紀元1世紀頃からは積石塚に代わって、石室封土墳とよばれる墳墓が使用されるようになる。

 石室封土墳とは、地下または半地下に、川石や切り石で墓室を組み、その上に土を盛ったものである。これら二種類の墳墓は5世紀頃までは共存したが、やがて石室封土墳に一本化されるようになる。壁画は石室封土墳の方に描かれたが、これまで100余基の壁画古墳が調査報告されている。

分布と分類

四神図展示室コーナー

主人公夫婦と玄武

 壁画古墳は、平壌市と南浦市、黄海道地方、鴨緑江の対岸にあたる中国の集安、桓仁などに集中している。これらの地方は高句麗の都が置かれた場所でもある。

 壁画が描かれたのは3世紀から7世紀中葉頃までで、数百年にわたり描き続けられたことが高句麗古墳壁画の重要な特徴といえよう。

 壁画は漆喰が施された壁面に描かれるのが一般的だが、中にはよく加工された石に直接描いたものもある。色は赤、黄、緑、青紫、黒などさまざまであり、金箔や銀箔、墨で筆書きした文字も確認される。

 壁画の内容は、人物風俗図、人物風俗および四神図、四神図に類型分類されている。人物風俗図とは、貴族たちの生活模様を描いたもので、主人公夫婦の肖像画や行列図、虎や鹿を弓で射る狩猟図、舞踊、服飾、曲芸、格闘技など、その内容は実に豊富といえる。四神図とは、四方をつかさどる神獣を東西南北に配置したもので、東に青龍、西に白虎、南に朱雀、北に玄武が描かれている。人物風俗および四神図とは、人物風俗図と四神が同時に描かれたものである。年代的にみると、人物風俗図が5世紀頃まで、人物風俗および四神図が5〜6世紀、四神図が6〜7世紀頃にあたる。

 豊富な主題と内容で構成され、繊細かつ力強い筆致で描かれた高句麗古墳壁画の具体的な話は次号に譲ることにしたい。(河創国、朝鮮歴史博物館 副館長)

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[朝鮮新報 2010.2.12]