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〈遺骨は叫ぶ-32-〉 山形・木友炭鉱

「乱闘事件」として、朝鮮人多数を「有罪」 待遇改善求めれば暴行し殺害

 亜炭は山形県にもっとも多量にある地下資源で、主な炭田は、最上、村山、置賜地区にある。その中でも、JR奥羽本線舟形駅から、西南700メートルにあった木友炭鉱(最上郡舟形町)は、「亜炭山としては規模と出炭量が日本一と言われた時期があった」(「舟形町史」)ほど大きかった。

木友炭鉱の元購買所

 木友炭鉱は、明治初期に地元の人が見つけ、自家用焚炭として掘られていた。そのあと、数人が鉱業権を得て出炭をしたが、採算がとれずに休山していた。だが、第一次世界大戦で燃料不足となってきたので、大日本鉱業が亜炭田に注目し、木友炭鉱の鉱業権を買収した。木友炭鉱は、この時から大日本鉱業によって本格的に採炭が行われた。

 だが、大日本鉱業が経営するようになると、60〜70人の朝鮮人労働者が木友炭鉱に連れてこられ、2カ所の朝鮮人飯場に住んで働くようになった。この時に一緒に働いた朴漢成の貴重な証言が残っている。朴漢成は、15〜16歳だったが、募集の際に人数がそろわず、70人ほどの大人に混じって日本へ連れてこられた。木友炭鉱では、坑内で亜炭を掘る仕事が多く、「夜明けから日が暮れて暗くなるまで働かされました。夜寝る時は、互いに顔を合わせて話をすることができないような形で寝かされました。病気になっても薬はないし、病人でもモッコ網の修理をさせられました。死人が出るとモッコで運んだが、その先、どのように処理されたかわかりません」「服装は、前を隠すのが精一杯の状態でした。不満を言おうものなら、桜の棒で容赦なく叩かれました。逃亡者も出るし、死亡者も出る」(「朝鮮人強制連行論文集成」)など、朝鮮人は痛めつけられた。木友炭鉱では、大正時代に朝鮮人の強制連行、強制労働がすでに行われていたと言われている。

 大日本鉱業が経営を始めた1917年に「日鮮坑夫乱闘事件」が起こっている。「山形県警察史」によると、木友炭坑では、日本人と朝鮮人の飯場が並んでいたが、北海道から募集した日本人坑夫数人が、朝鮮人の飯場へ酒気を帯びて行き口論となり、1人の朝鮮人を殴った。その後、双方50人ぐらいの乱闘となり、日朝各1人の死者と重軽傷者11人が出た。新庄署と隣接警察署から警察官を動員して押さえた。日本人1人と朝鮮人25人が起訴され、朝鮮人25人が懲役3年、日朝各1人が懲役6カ月、朝鮮人8人が40円の罰金刑になった。「舟形町史」も同じ書き方をしているが、事実は朝鮮人が待遇改善を求めたのに対して、炭坑では暴力団を動員すると四斗樽の酒を飲ませ、改善を求める数人の朝鮮人を殺したのが事件の発端で、しかも罪もない多数の朝鮮人が「有罪」になったのは事実に反する。町史の執筆者は、山形県内でも良心的と見られている人たちだが、十分に調べなかったのだろうか。

木友炭鉱の山神社への入口

 その後大日本鉱業は、木友炭坑の経営規模を縮小したが、30年に浅野同族株式会社に譲った。浅野も10年間稼行したあと、19年に国策会社の東北興業に経営権を渡した。東北興業では、戦時経済体制に備えて設備を一新し、生産量を伸ばしていった。この当時、日本人坑夫は300人ほどだったが、出炭量は5千トンに近かったので、労働力は大幅に不足していた。日本人を雇用するのは難しいので、朝鮮人を使用することになり、東北興業が、直接慶尚北道の清道市役所を通じて募集した。

 木友炭坑には、40年に100人、翌41年に100人の朝鮮人連行者が「毎月の興亜報公日には、神社の参拝を行い、国旗を掲揚し、節酒節米禁煙を行い、節約した分は全部貯蓄する」と約束させられてきたという。ほとんどが若者で、独身者が多く、長屋式の飯場に入れられた。朝鮮人は、10人を一班とした班編制で、班長がいた。だが、朝鮮人に対して警察は厳しく監視した。大正時代に起きた乱闘事件があったからだが、新庄警察署の署員が7日から10日に1度は鉱山に来ていた。

 朝鮮人は、木友本坑、折渡坑、芦沢坑で、運搬、採炭などに使われた。41年の木友炭坑の従業員は、500余人とあるが、そのうち200人が朝鮮人坑夫と、大きな比重だった。しかし、大正時代に働かされた朴漢成のような朝鮮人の証言は残っていない。「舟形町史」には、「朝鮮人は大食なので、材料の調達に苦労したが、日本人坑夫と差別しないで不足なく与えたので不満はなかった」と、当時の朝鮮人を使役した2人の日本人責任者の挿話を載せている。戦時中の自分たちの行為を正直に述べた日本人責任者はどこにもいない。

 2009年の5月下旬、舟形町に行き、木友炭坑跡を歩いた。山神社と炭鉱の元購買所、所長室のあった空き地を確かめることができただけで、あとは何も残っていなかった。ただ、元購買所を商店にしている80歳ぐらいの女性に「朝鮮人を見ましたか」と聞くと、「いたよ」と私を睨みつけたまま黙ってしまった。何があったのだろうか。 (作家、野添憲治)

[朝鮮新報 2010.2.8]