top_rogo.gif (16396 bytes)

〈生涯現役〉 50年前、朝大校舎建築に携わった(下)−金鼎宣さん

平壌−東京結ぶ赤い糸

朝鮮大学校の竣工式の後で(1958年)

 太平洋戦争の激化にともない、横浜国立大学を半年早く卒業した1942年春、金さんは建設大手の竹中工務店東京支店に入社。日本敗戦直後には、GHQの命で都内の病院の改修工事に当たったこともある。その後、埼玉県庁舎新築第一期工事、衆議院九段議員宿舎増築工事、東宝砧撮影所の500坪の双子のコンクリート屋根(日本初のドーム型)など数十の現場で施工監理の修業を積んだ。

 解放から5年。情勢は急を告げていた。朝鮮戦争の勃発で金さんが平壌への空爆で胸を痛めていた頃、平壌公立高等普通学校の後輩で、金さんを頼って横浜国大に学んだ康処漢さんの消息が飛び込んできた。

 「康君は卒業後、ソウルへ。その後、人民軍のソウル解放に伴い平壌に戻った。そして、金日成主席の指示で、平壌市行政経済指導委員会副委員長に抜擢され、戦時中にもかかわらず欧州各都市を視察した」という胸躍る知らせだった。

 「感激した。戦後は主席の平壌市再建の構想を実現させるべく、牡丹峰劇場はじめ有名な建築を彼が手がけたと聞いて、自分のことのようにうれしかった」

 朝鮮戦争復興で果たした同窓生の目覚しい活躍。そんなときに金さんの元にも人生を一変させる依頼が舞い込んできた。「来年1月から朝大新校舎の建設工事が始まるので、竹中を退職して現場の施工監理をしてくれんかと」。58年の暮れのことであった。

石原裕次郎邸も

34年ぶりに帰郷した金さん(73年)

 当時、金さんは石原裕次郎邸と水の江滝子邸の建設を手がけており、東京・成城の現場に足繁く通っていた。そのうえ、当時、結婚に破れ、手元には幼い2人の子どもが残されていた。幸い子どもを預かってくれる人もみつかり、朝大の現場に通うことになった。

 「翌59年正月3日から昼間は成城の石原邸の現場に、夕方は成城から小平の建築現場を全面的にみるということになって、二足の草鞋の生活になった。もちろん、会社には内緒。鷹の台駅までの定期券を新たに購入して…。家に帰るのは毎日午前0時前だった」

 朝大の現場では、生コンクリートの業者の存在は当時はまだなく、コンクリートを打つためには、建物近くにタワーを建て、その下部にミキサーを据え付け、そこで練り上げたコンクリートをバケットで揚げ、目的階の型枠に流し込むようにした。

 工事の完成予定日は、5月31日。夜は寒いなかを昼間のように明るく照らして毎日夜10時までの突貫工事が行われた。工事を担った白石建設は、施工主の要望に誠心誠意応えてくれた。

石原裕次郎邸の完成を祝う(金さんは後列右端)

 「私は自分なりに使命を自覚し、多忙を極めたが誇らしい日々であった。石原邸工事の残業で遅くなっても、帰路新宿に着くのが夜8時前だったら、朝大の現場が明るいうちにたどりつけた。鷹の台駅から川べりの素晴らしい小路を歩きながら、朝大生もいつか、青春を謳歌するであろうと連想するのは、暗がりの怖さを吹き飛ばさせた」

 昨年は朝鮮大学校が小平に移転して50周年。当時のことが走馬灯のように蘇ってくる。

 「当代を代表する建築家・山口文象先生の設計は大学の池のある中庭を囲むように研究棟・図書館・厚生棟・事務棟が設置され、打ち放しコンクリートによる柱と梁の斬新な構成であった。そして、武蔵野の美しさを残す玉川上水の環境にマッチすると高く評価され、1962年度『日本建築年間賞』を受賞する栄誉を担った。これは私たちに望外の喜びをもたらした」

 また、施工を担当した白石建設との出会いも、忘れがたいものであった。

 「白石建設は朝大新築工事の入札で最も安価で適切であったこと、見積内容に非の打ち所がなく、誠実さがあふれていた。私自身、その内容に敬意を表わしたほど蓄積された豊富な経験と優秀な技術が駆使されていた。のちに、多くのウリハッキョを新築、改築するさいに同社にお願いすることになったが、その原点にはここで築かれた信頼関係が大きかった」

時代に恵まれて

 金さんの住まいから朝鮮大学校の校舎まで、直線距離で5キロほど。晴れ上がった日には、肉眼で校舎の姿をとらえることができる。

 「朝大はわが子のようなもの。平壌生まれの私が縁あって日本に来て、建築を学んだ。赤い糸で結ばれていたのか、朝鮮大学の新校舎建設から約10年にわたって施工・管理をまかされた。時代とはいえ、こんな幸運に恵まれたことを誇りに思っている」

 金さんは朝大新校舎完成後、竹中工務店を退社。59年9月には、朝大理事会施設建設担当責任者に就任した。そして、平壌に帰郷したのは渡日から34年後、73年5月であった。今も妹一家が健在だ。(朴日粉記者)

[朝鮮新報 2010.2.5]